春三月、お雛さまを飾った。母の実家からやってきた100年前の能舞台の翁と、50年前に娘に贈られた京雛と。お公家さんのならいで京都では向かって左が女雛、右に男雛が並ぶ。今年もまた、春を運んできてくれた。時の流れは、ほんとに速い。


それにしても、もう戦後75年も経つんだ。先日、「わたしのイチオシ」で紹介した、蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴編『なぜ戦争体験を継承するのか ポスト体験時代の歴史実践』に触発され、戦争を知らない私も、かすかに残る「戦後」体験の記憶が蘇ってきた。
1943年、北京秋天、突き抜けるような青い空のもと、北京・王府井の近く、東単の胡同で、重い病の母を助けようと早産で生まれてきた私。生後3カ月の私を抱く母に、リュックいっぱいのおむつを背負った父が、満鉄に乗り、釜山まで。関釜連絡船を乗り継いで、熊本の母の実家まで付き添う。そして父は再び北京へ戻っていった。肋膜から腹膜炎を患った母は特効薬も何もないなか、安静に専念して回復する。97歳になる母は、今も元気で、そばにいてくれる。

中国で農業関係の合弁会社にいた父は同僚の中国人たちに助けられ、敗戦2年後に無事、帰国した。その後、大阪の南・淡輪で山を開墾し、満蒙開拓団から引き揚げてきた長野県の人たちと共に農場を開く。そこで育った私は満天の星の下、ドラム缶のお風呂に入り、ヤギの乳や絞りたての牛乳を飲んで丸々と太っていた。
物心がついて最初の記憶は1946年(昭和21年)、3歳の頃。まだアメリカ占領下の時代。伯母といっしょに街を歩いていたら、進駐軍のMPにひょいと抱き抱えられ、頬ずりをされたのを覚えている。きっと丸々と太った私に、アメリカに残してきた我が子を重ねて懐かしく思ったのかもしれない。
1947年(昭和22年)、4歳。夕方のラジオから「緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子の 時計台」(菊田一夫作詩・古関裕而作曲「鐘の鳴る丘」)のメロディーが流れてくる。3番の「父さん母さん いないけど 丘のあの窓 おいらの家よ」の意味がよくわからなかったけど、後にそれが戦争孤児たちのことだと知り、このドラマは、アメリカのカトリック神父・フラナガンの精神を踏まえて、CIEがNHKに戦争孤児救済のドラマをつくるように命じて制作されたことを知った。
その頃、母は兄に5球スーパーのラジオを組み立ててもらい、ラジオの「名演奏家の時間」でクラシック音楽を、よく聴いていた。「メーエンスイカの時間ってなんだろう」と子ども心に思っていた。
その伯父は、1943年、学徒出陣で東大から戦地へ向かう。ハルピンで通信兵として飛行機に乗っていた。部隊では学生はみんな、下士官にいじめられ、「便所で首を吊って死んだ戦友のことが今も夢に出てくる」と、後に伯父が語ってくれたことがあった。戦後、東大へ復学。毎週、大学のホールで演奏されるクラシックコンサートを聴くのが一番の楽しみだったという。
当時の東大総長は南原繁。1945年春、終戦の詔勅の文案の構想を練ったのは、東京帝大法学部長の南原繁ら7教授だった。「交戦を継続すれば、民族の滅亡だけでなく、人類の文明をも破却する、それは堪えがたいとの論理構成がとられていた」と、加藤陽子の「近代史の扉」の記事に書かれていた(毎日新聞2021年2月20日付)。
大学生の頃、教育実習でいった中学の担当教師が、行きつけの喫茶店に私を誘い、カウンターでコーヒーを飲みながらボソッと語った「俺は特攻隊崩れなんだよ」という言葉に、どう返していいのかわからず、受け止めきれずに黙って聴いていたのを思い出す。
母の姉の夫は戦時、台湾で軍法務官をしていた。中隊長として敵陣に突撃する日が決定した。その前夜、伯父は突然、「お前を離縁する。すぐ日本へ帰れ」「えっ、なぜですか?」と問う伯母に「わけは言えない。大石内蔵助だ」と答えたという。突撃後、部隊は玉砕して捕虜となった伯父は、植民地下の台湾での軍法会議で、自ら敵兵に下した審判を恥じて獄中自殺を遂げた。後に、生き残った部下が伯母を訪ねてきて、そのことを語ってくれたという。
1947年、4歳の頃。私は母に連れられ、和歌山の水軒口までピアノのお稽古に南海電車に乗って通っていた。電車が動き出すまでの間、車内に傷痍軍人が乗りこんでくる。白い着物に松葉杖をつき、アコーディオンを弾きながら「異国の丘」を歌って募金を求めていた。やがて彼らにも軍人恩給が支給され、生活の糧を得たと聞いたが、最後まで何の補償も受けられないまま、街頭で傷痍軍人として募金を集めていたのは、戦前、日本軍属として戦傷を負い、戦後、韓国籍となった旧日本軍兵士たちだったことを、大島渚の『忘れられた皇軍』(1963年、日本テレビ)で知って、愕然とする思いがした。
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。小学校1年に入ったばかりの私たちに担任の女教師は地図を指して、「またここで戦争が始まってしまいました」と悲しそうに説明してくれた。世の中は「朝鮮特需」で景気がよくなると、新聞に載っていたけれども。
当時、学校へ草履に手提げ袋で通ってくる生徒たちが多かったなか、ピカピカの皮製のランドセルを背負う男の子がいた。「あの子のお母さんは米兵の<オンリー>さんよ」と大人たちの噂を聞いて、子ども心に、フーンとわけがわからず、首を傾げたことがあった。そういえばチョコレートを一個、あの子からもらったこともあったっけ。
1952年、小学校3年生の時、父の仕事の都合で、私たちは田舎の農場から大阪の天満橋へ引っ越してきた。賑やかな大都会にびっくり。でも道路には荷物を積んだ馬車がポッカポッカと往来し、大川の橋の下の掘っ建て小屋に住む家族がいて、小さい子が共同便所へ水を汲みにきていた。天満橋駅には、靴磨きの少年がせっせと働いていた。家の裏を流れる大川に鉄クズを搭載したポンポン船が通り、船で暮らす水上生活者の姿は、宮本輝の『泥の河』の風景と重なった。
1960年安保で御堂筋をフランスデモで男子学生と腕を組んで歩いたのが、高校2年生の時。初めてのデートで映画「風と共に去りぬ」に同級生に誘われたのも、この年。大学へ入学して「新聞会」に入部する。待兼山にあったサークル室には、中核や核マル、社学同、第四インターのセクトが仲よくたむろする、まだおおらかな時代だった。元・山村工作隊の人たちも出入りしていた。
やがて世の中は高度経済成長の時代へと、つき進んでゆく。1964年の東京オリッピックも、1970年の大阪万博にも、「誰が行くもんか」と背を向けていたけれど。
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」は、菊田一夫のラジオドラマ「君の名は」の冒頭のセリフだ。「もう忘れてしまいたい」過去と、「決して忘れてはいけない」過去もある。時の流れとともに、誰もが自分で、どちらかの道を選びとってゆくのだ。
お彼岸を前に、北野神社の近くのお寺へ義理の父母のお墓参りに出かけた。北野神社の梅園は満開だった。春を忘れずに咲く梅を眺めつつ、あったかい日差しのもと、走馬灯のように、時の流れの速さを感じながら、しばし思いに浸る春のひとときだった。
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