次男のレナードがカナダのJK(Junior Kindergarten 幼稚園の年少)に入園したとき、事前面接がありました。担任となるアリソン先生と握手を交わし席に着くと、先生は手元の書類に目を落とし、「あら」とつぶやきました。「レニーのほうがいいのね」

そういえば、入園の書類に「本名」と「希望の名前」という欄があり、「希望の名前」欄に「レニー」と書いた気が。

「全部レナードでラベルを貼っちゃったわ、私」と、アリソン先生。「ごめんなさいね、入園までには全部レニーに直しますから」

JKのクラスルームでは、子供たちの利用する靴箱やカゴ、フック、本立てなどのすべてに名札が貼られています。それらをすべて張り替える手間もさることながら、貧乏性の私は素材がもったいないと思い、「いいですよ、このままで」と言いました。

ところがアリソン先生の返事は、「いいえ、こういうことは大事ですから」でした。

一方、現在暮らすドイツの学校では、なにがなんでも本名が使われます。親が「レニー」と言ってみたところで受け入れてはもらえませんでした。ロッテンマイヤーさんが愛称を使うことを頑なに拒み、ハイジをアーデルハイドと呼び続けた所以を垣間見た気がしました。かくしてドイツの学校に編入した次男は突然、親にも呼ばれたことのない名で呼ばれることとなりました。

私個人にとっては、欧州より北米のほうが暮らしやすいのですが、その理由を説明するならこの「個々の選択を尊重する社会」という一言に尽きると思います。欧州の人たちは自分たちを「寛容」と見なしていて、北米より上だと思っているようですが、一方で私には意見の押し付けも強く感じられます。

ただ、私はまずドイツで入籍したのですが、姓には選択肢がありました。言い換えれば、選べなかったわけでも、押し付けられたわけでもありません。旧姓を選ぶことも、旧姓と現在の姓をつなぐこともできました。でも、私が、Morgensternになることを選んだのです。

理由? いくつかありましたが、「伝統的な価値観」とか「家族の一体感」などという考えはこれっぽっちもありませんでした。

まず第一に、私は自分の旧姓があまり好きではありませんでした。下の名前との組み合わせでのゴロが悪いし、それに、旧姓といえば父方の姓。私は父方の「家」をあまり快く思っておりませんでした。さらに、旧姓にてなし得た実績も特にありませんでしたし、それまで生きてきた人生に特に満足していたわけでもありませんでした。つまり、名前を変えることに何の抵抗もなかったのです。

また、欧州はサイン社会。Morgensternはそれ自体長いので、旧姓とくっつけてさらに長くなると、サインが面倒くさくなるなあ、という気もしました。(後々わかったことですが、サインはぐにゅっとミミズが這ったような一本線でもよかったみたいです)。それで、Morgenstern姓に決めました。

特別気に入っているわけではありません。まず、変な芸名みたいでうさんくさいですよね。ハーフタレントの真似と思われるのもいやだし。そして、結論から言えば、夫婦同姓で家族の絆が深まったなどということはまったくありません(現に離婚してるし!)。あえていえば、多少便利だったことくらいでしょうか。日本ではあまり知られていないかもしれませんが、ハーグ条約のせいで、片方の親が子供を連れて旅行するのには面倒が伴うことがあります。入管などで親子の証明をしなければならないことが時々あるのですが、姓が一緒だと証明が楽です。が、メリットといえばそれくらいしか思い浮かびません。

ですが、好むと好まざると、この姓は私が「選んだ」名前なのです。大学卒業までを親に生かされていたとするなら、大人になって自分の力で生きた最初の10年弱と、その後この自分の選んだ名で生きた20年弱では、あきらかに後者のほうが濃い。私はこの名で母になり、学位を取り、書籍を出版したのですから。

だから、今後一生名を変えることはしまいと、離婚を経て再婚の可能性をぼんやりと考える今、思います。たとえが偉大すぎて恐縮ですが、かのアリス・マンローも一人目の夫のマンロー姓を貫いています。名を変えるのは一度でいいということでしょう。私もいい教訓になりました。

イラクサ (新潮クレスト・ブックス)

著者:アリス・マンロー

新潮社( 2006/03/29 )

ところで、 Morgensternは日本語表記にすると、慣例としては「モルゲンシュテルン」となります。ただしこれはいわゆるカタカナ独語で、発音は絶対にモルゲンシュテルンではないと思っています。そもそも r の後ろに母音の u はないんだし!(あえて独語発音をカタカナで表記するなら「モアゲンシュテアン」でしょう)。戸籍の表記はごちゃごちゃ言わず慣例どおりにしましたが、英語での仕事が多い私は、「モーゲンスタン」と英語読みで名のっています。

これがどうも、ドイツ在住の日本人には気に入らないみたいなんですね。私がメールの最後に「モーゲンスタン」と署名しているにもかかわらず、わざわざ「モルゲンシュテルン」とかMorgensternと宛ててくる。日本語で書けるものをいちいちアルファベットで書くのは、流行りかもしれませんが、私は抵抗があります。カラオケなんか行くと、海外アーティストはみんなカタカナ表記なのに、なぜ日本人がわざわざアルファベット、みたいな? もとい、メールの本人署名に従って相手を呼ぶのは国際ビジネスの基本なのに、なぜ素直に「モーゲンスタン」と呼べないのかな?

いいじゃないですか、あなたの名前じゃなくて、他人の名前なんですから。その人の希望するとおり呼べばいいじゃないですか。私がモーゲンスタンと名のることで、あなたに何か迷惑かけました?

多くの女性が結婚しても旧姓であり続けたいと願う気持ちと、私が離婚しても再婚しても今の姓を保とうとする気持ちの根拠は同じです。で、これから結婚の予定もないそこらの爺さん方とか、その他別姓に反対する方々、えーと、私たちの名前があなたの人生に何か影響を及ぼすんですか? ご夫婦連名で反対される方々もいますね。とくに奥様の方…これは、あれですか? 自分が先輩に虐められたから後輩を虐めるというアレですか? それとも、私たちが貴女のご選択を否定しているように感じられているのでしょうか。貴女が自分の名前についてとやかく言われたくないように、私たちも私たちの名前についてとやかく言われたくないのです。

こういう、自分とはなんの関係もないことに反対するのに無駄なエネルギーや時間を費やす人に向けて言うピッタリの表現が英語にあります。

Get a life!

意味はみなさんで調べてね。

(本稿は2015年3月にwww.groupofeight.comに掲載された記事に加筆修正したものです)