ステイホームの悪夢――ZoomとiPadとプラレール
二度目の緊急事態宣言が出そうだ、出る、出た、という2021年の年明け、そのニュースに安堵する声と絶望する声とが響き渡った。これで命が守られる……でも、これでまた暮らしがたちゆかなくなる……、あるいはその両方。
また一斉休校になるんじゃないか、臨時休園が始まるんじゃないか、と悲鳴をあげそうになったのはわたしだけではないだろう。一度目の緊急事態宣言下で24時間ずっと子どもと過ごすことを余儀なくされた母親・父親たちの多くもまた、もちろん家族の命を守りたいけれど、しかしこれでは命が削られる、と嘆息しただろう。
「あのときのことは、たいへんすぎて記憶すらない」という話を、よく耳にする。あの春、わたしたちはコロナにおびえ、とにかくありとあらゆるものを除菌して、何度も検温し、マスクと消毒液とトイレットペーパーを買い求め、これは買い占めじゃない買い溜めだと自分に言い聞かせ、子どもにはおもちゃやゲームを与え、テレビを見させ、でもそれだけではだめだから生活のリズムを守らせ家庭学習もさせ、毎日毎日毎日、食事を用意してお皿を洗って洗濯をして掃除をして、また作って洗って汚れてきれいにして――さらには在宅で仕事もして!――どうにかこうにか生き延びた。その記憶すらもうたどれないほどに、疲労困憊した。
わたしが思い出せるのは、べたべたになったiPadと、空転するプラレールの車輪だ。3歳の子どもが通う保育園が臨時休園になり、勤務する女子大学の授業がオンライン化した2020年の春、わたしは日がな一日家にいた。子どもに食事をさせながら授業案を練り、子どもが別室で夫を相手に泣きわめいているのを聞きながら講義を録画した。Zoomで授業をするかたわらに子どもをおいておかねばならないときもあった。静かにしていてくれるように、iPadを与え、YouTubeを観せ、プラレールの線路を組み上げておき、お菓子やジュースをたくさんあげ、その複数を組みあわせもした。
しかし当然、そんな試みがいつもうまくいくわけもない。オンライン授業中に子どもが乱入してくるのはいつものことだった。だっこしたい、おねえさんたちとおはなししたい。さらにはiPadの音が出なくなり、YouTubeの動画が終わってしまい、プラレールが脱線し、ジュースがこぼれる。そのたびにわたしは、英文パラグラフの構成やraceとethnicityの違いを説明するのを中断して、べたべたのiPadを調整し、プラレールの青いレールと黄色い橋脚を組み直し、そしてまた授業に戻るのだった。へんな汗をかき、しどろもどろになり、焦り、苛立ち、でもZoomの画面上では笑顔をたやさないように、と、それはもう必死だった。必死すぎて、その他のことを、やはり、あまり覚えていない。

プラレール
ママたちのエッセンシャルワーク
母親たちの悲鳴は、世界中で聞かれる。なぜなら「ステイホーム」は、その「ホーム」を守る者とされてきた母親たち(そして「母親業」を担う他の者たち)に、いっそう重くのしかかるからだ。パンデミックのなかですみやかに社会のオンライン化が進めば進むほど、毎日24時間、家族が同じ空間にいつづけ、その世話の大部分を母親たちが担わなければならない、という事態が生じた。
カナダの女性学研究者Andrea O’Reillyは、そうしたなかで女性たちが心情を吐露し経験を共有するためのプラットフォームを、早くも2020年5月に構築し、そこでかわされた女性たちの声を紹介している(Andrea O’Reilly, “‘Trying to Function in the Unfunctionable’: Mothers and COVID-19,” Journal of the Motherhood Initiative for Research and Community Involvement, 11(1), pp. 7-24, 2020)。その“Mothers and COVID-19”と名付けられたFacebookグループには、カナダだけでなく世界中から、様ざまな立場にある母親たちの――シングルの、性的マイノリティの、移民の、自身や子どもに疾病や障害のある母親たちの――悲痛な叫び声が寄せられた。
「ホーム」を切りまわすためのタスクには、際限がない。毎日の食事の準備には、調理だけではなく、家族全員が食べられる献立と栄養バランスを考えること、少ない回数で効率よく買い物をすること、もちろん食器の片付けやキッチンの掃除も含まれる。子どもの家庭学習も、まずは机や椅子や道具を準備し、パソコンやタブレットの前に座らせ、授業にログインしたのを見届けたるだけではだめで、きちんと集中しているか時折様子をチェックし、そのあと課題や宿題を手伝う、と、終わりがない。多くの母親たちがそれらすべてを自身のオンライン会議やリモートワークの傍らで行っていた。そうしないと職を失うとおびえ、身体的にも精神的にも極限まで追い詰められていた。
にもかかわらず、彼女らのそのかけがえのない仕事――まさに「エッセンシャルワーク」――は、なされて当然のこと、とりたてて賞揚するまでもないこととされている。それは、社会がこれまでケアワークを、人が生存していくにあたって不可欠な仕事のすべてを、価値の低いものとみなし女性に押しつけ、そして不可視化してきたことの繰り返しに他ならない(ジョアン・C・トロント、岡野八代『ケアするのは誰か?――新しい民主主義のかたちへ』白澤社・現代書館、2020年)。
女性たちは前述のプラットフォームにこう書き込んでいる。「キャリアがだめにならないようにふみとどまって、でもそうすると母親としての罪悪感に飲み込まれそうになる。これはもう何を選んでも負けの状況。仕事と育児がぶつかりあって、どっちもだめになってしまう」「わたしは母親としてもダメダメで最低で、家庭学習の先生としてだってひどいし、主婦としても最悪、会社員としてもお粗末。1日は24時間しかないのに、それが何百万っていう小さいことに割かれていて、どれひとつ満足にできない」(p. 15)。O’Reillyはこうしたことばを引きながら、母親たちがおかれた状況をこう表現する――「The impossible, the unfunctionable, the unsustainable (できるわけなんかない、うまくいくわけのない、つづけられるはずもないこと)」。そして、わたしたちはもっとこの経験を語り、社会に知らしめなければならない、と主張する。
「良妻賢母」という呪縛を抱えた日本社会においては、その重圧はいっそう強いかもしれない。母親ならば家庭を優先するのが当然と期待され、しかし仕事も同等にこなさなければならず、そのダブルシフトだけで精一杯だった日常に、感染症が追い討ちをかける。それまでの生活のなかで、やっとのおもいで外注する手はずを整えてきた料理や掃除や教育が、ふたたび家庭のなかで処理されるべきこととして立ち現れ、そこに健康管理や除菌の負荷もかかる。まさに、できるわけのない、つづけられないことの綱渡りだ。
「ちゃんとする」という罠
そのなかで女性たちは、O’Reillyの引用からも明らかなように、そしてわたしも経験したように、自身のなかにある「仕事も家事も育児も、すべてをちゃんとしなければ」という意識と、それができなかったときの罪悪感に苛まれる。それは、女性たちが生きてきたなかで教えこまれ信じこまされてきたジェンダー・イデオロギーだといえるだろう。と同時にそれは、感染すれば感染した本人(やその家族)が悪いと責められ、キャリア上でつまずけばキャパ不足だと言われ、すべては自己責任に帰され、「ちゃんとしている」者だけに成功が許される、ネオリベラリズムの罠でもある。
ネオリベラルな主体は、自らの資本を最大限に活用し、効率的に合理的にふるまうことができなければならない。だからキャリアはもちろんのこと、結婚や出産や育児もまた、個人が個人の責任において戦略的に遂行すること、その意味において「私的」なこととなる。裏を返せば、これらの負担を「公的」に分け持ってもらうことはきわめて困難だ(菊池夏野『日本のポストフェミニズム――「女子力」とネオリベラリズム』大月書店、2019年)。
感染症対策もそうだ。個々の資源をフル活用して、「自助」でもってなんとかせよ、と。そこでがんばれる――より正確には、がんばることのできる能力や環境にめぐまれた――人たちはいいだろう。けれどお腹が大きかったり授乳していたりしたら、子どもが熱を出したり怪我をしたりしたら、条件が整った人と同じようにはちゃんとできない。貧しかったり障害があったり差別されていたりする人たちは、そもそものスタートラインにすら立てない。そして脱落を余儀なくされる人たちがいる――「私的」なことをちゃんとできないあなたが悪い、と。
しかし、もう一度問おう。そもそも、ちゃんとすることなんてできるんだろうか。ケアワークが不可欠なのに不可視化され、その実女性たちに担われているこの社会において、その女性たちが男性やその他の環境の整った人たちと同じように「共同参画」することは、そもそもが、「できるわけなんかない、うまくいくわけのない、つづけられるはずもないこと」なのだ。そこにパンデミックが押し寄せてきたときに、女性たちが膝から崩れ落ちるのは、だから、当然だ。あわてふためき、記憶をなくし、自己嫌悪に陥り、悲鳴をあげるのも自然なことだ。むしろその悲鳴はまだ小さすぎるほどで、O’Reillyが言うように、社会をつんざくほどの声が聞こえてこなければならない。
乾いた、でもあたたかい、笑い
もちろんこの間にも、ちゃんとしていたお母さんたちはたくさんいる。きれいに整えられた部屋で創意工夫に満ちたおうち時間を過ごし、色とりどりのオーガニックで健康的なおうちごはんを家族に振る舞い、さらには趣向を凝らしたかわいい布マスクを手作りしたかもしれない。夫の仕事や子どもの成長を妨げることのない、誰かに迷惑をかけることなどない、キラキラと楽しげな生活。しかしそれがすべてではない。決してない。
アメリカの科学者Gretchen Goldmanのツイッター投稿はひとつの効果的な反例だったいえるだろう。2020年9月にテレビのニュース番組に自宅からリモート出演し、気候学者としてトランプ政権を鋭く批判した彼女は、その直後に、「正直に言っておくね」というつぶやきとともに、舞台裏を明かす一枚の写真を投稿した(毎日新聞 2020年11月14日)。
テレビの画面上ではプロフェッショナルな彼女の姿しか見えないが、実はその画角の外では、リモート出演のためにパソコンの高さを調整すべく、コーヒーテーブルの上に椅子を乗せ、さらにその上にパソコンを乗せていたり、そのまわりには大量のおもちゃが散乱していたり、そもそも彼女の下半身はショートパンツ一枚だったりするのである。
そう、たとえうわべを繕えたとしても、このカオスをこそわたしたちは生きている。多くの女性たちがこの写真に共感を寄せ、同様の投稿が相次いだ。キラキラしていない、できない自分を、恥じるのではなく隠すのではなく、白日のもとにさらけだす。なぜならこのどうしようもない日常は、そもそもがうまくできるはずなんてないものなのだから。
日本には、ツイッターのハッシュタグを使ってどうしようもなさを表現したママたちがいた。なかでも「#名画で学ぶ休校休園中の育児」は、その以前からあった「#名画で学ぶ育児」にならい、美術や世界史の教科書に載っていた芸術作品に日常のあるあるネタを付したもので、笑いを誘う。ママたちのユーモアとウィットにかかれば、芸術作品が表現していたはずの宗教上の憂いや歴史的な諍いや哲学的な迷いは、三度の食事や家庭学習やテレワークの苦悩に置き換えられる。
宗教画をとびかう天使は家のなかで暴れ回る子どもに、マリアとイエスの聖母子像は意図せずテレビ会議に親子出演してしまった画面に、見立てられる。有名な「ピエタ 像」も、こうなってくるともうステイホームに疲れ果てた母と子の姿にしかみえない。いつかバチカンを訪れて荘厳な雰囲気のなかで、ツイートの元ネタとなったこの彫刻作品に対峙したとき、わたしは宗教的献身でも聖なる母子愛でもなく、あの、オンライン授業が終わってさあ今なら騒いでいいよというときに限って昼寝をし始める子の横で、かんぜんに茫然自失していた、5月の春をおもうだろう。
日本の母親たちは、団結して組織して、この、ネオリベラル・ジェンダー秩序(菊池 前掲書)に立ち向かうわけではない。そのための時間も気力もないほどに疲弊している。けれどそのなかに、乾いた笑いでもって、休校休園中の育児がまさに「できるわけなんかない、うまくいわけがない、つづけられるはずもないこと」だと暴き立てるママたちがいる。ネオリベラルな主体になんてなれない、なれるわけがない、と、罠をすり抜けていくように。
と同時に、冷笑的ともおもえるこのあるあるネタたちは、あたたかい笑いをもよびおこす。わたしもそう、これはわたしだ、わたしの家だ、と、共感する。ちゃんとできないのはわたしだけではない、できなくて当然なんだ、と共鳴する。3歳児は急にだっこしてほしくなるし、プラレールは脱線するものだし、ジュースはこぼれるものだよね、と。3歳児が3歳児であることに、なぜわたしたちは困っているのだろうね、困らされているのだろうね、と。
かつては井戸端会議でかわされていたようなその声は、テクノロジーの発展をうけて――そして密を避けるためにも――インターネットにのり、今、異なる地域の異なる背景の女性たちによって、スマホやタブレットの画面上で共有されている。匿名の、それゆえの安心とあたたかさのなかで。
絶望を抱えて、絶望のただなかで
いったいいつ事態は収束に向かうのだろうか。またあのカオスに陥ることも怖いし、そして、パンデミックが解消したとして、そのあとに、みんながんばったねと空虚に讃えられ、そして、すべてが忘れ去られていくことも怖い。そしてまた、新たなウィルスが現れたり大きな災害が起きたりしたときに、まったく同じことが繰り返され、同じ絶望を生きなければならないことが怖い。わたしたちはそのとき、また笑うことができるだろうか。そんな力が残っているだろうか。
今が分岐点のような気がしている。この絶望を、共感につなげて、そこから想像力に変えていけるかどうか。わたしの苦労は、たとえば医療の最前線で毎分毎秒緊張を強いられ勤務されている方々や明日食べるものに困って支援を求めている方々に比べれば、あまりに些末なことでしかないし、と同時に、家のなかにとどめおかれ24時間のケアワークに向き合ってきた方々――在宅で親の介護をされている方々、お子さんの医療的ケアを担われている方々、不登校のお子さんの家庭学習にとりくんできた方々――は、パンデミックの前からつねにいた。わたしは彼女ら彼らの苦悩を、痛みを、みないことにしてきたのではないか。他にもみえていないことがたくさんあるのではないか。
パンデミックは、想像力を開いてくれる。そのとき、わたしのほうがしんどい、いやわたしだって、などと言いあうのではなく、痛みを知る者どうし向きあうことが、今ならできるのではないだろうか。絶望のただなかだからこそ、願わくば、あたたかい笑いでもって。
(講談社「現代ビジネス」2021年3月12日 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80963 許可を得て転載。)
北村 文
津田塾大学准教授。1976年滋賀県生まれ。社会学、ジェンダー研究、日本研究、エスノグラフィー。著書に『日本女性はどこにいるのか――イメージとアイデンティティの政治』勁草書房、『英語は女を救うのか』筑摩書房、共編著書に『現代エスノグラフィー――新しいフィールドワークの理論と実践』新曜社。
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