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  • 奪われた「言葉」と「記憶」を取り戻すためのフェミニズム ~セクシュアルアビューズサバイバーの当事者研究~ 2018/05/19

    2018/05/19

    • リサーチ

    著者名:荒井 ひかり

    1973年生まれ。東京都出身。1996年 美術大学卒業。 油絵専攻。 子どもに絵画や工芸を教える仕事に従事している。 第29回 WAN上野ゼミで当事者研究報告を行った。 2015年よりWAN会員。 現在WANボランティアスタッフとして、女性の権利について考え、活動している。

    コメンテーター:信田 さよ子(のぶた さよこ)

    奪われた「言葉」と「記憶」を取り戻すためのフェミニズム ~セクシュアルアビューズサバイバーの当事者研究~ 2018/05/19

    1 はじめに
    私は空が飛べる子供だった。
    小さな頃、自分には確かに空中を浮遊できる体感があった。
    自分の身体と意識が別物だったのを知ったのはいくつの時のことだったのだろうか。ある時、自分の身体は飛べないことを知った。階段からふわりと飛んだら、身体に確かな痛みがあった。夢と現実と身体と意識と…全ての境界が曖昧な世界で空想に耽り、自由な未来を想像していた。幼い頃、私は、現実に目をつむり、意識は解離して空中を飛び回っていた。本の世界が自分のリアルだと信じることができていた。
    しかし、身体の成長に従い、私はまごうことなき女であることを知る。月経では痛みを覚え、脂肪は身体に丸みを与え、身長は止まり、この痛くて重い身体が自分のものであることを認めざるを得なくなった。やがて性暴力の記憶が蘇り、それまでの私は消えて無くなった。
 私というものは記憶の連なりで作られている。
 失われた記憶が蘇る度に、連なりが途絶え、私は自分を作り直さなければならなかった。
 この当事者研究の目指すところは、フェミニズムの言葉によって自分を作り直した軌跡を辿ることである。これからの私を考えていくために、今・ここの起点をはっきりさせるための試みである。


    2 『結婚帝国』を読んで考えた
    「性的な行為が、支配と所有の刻印になるというのは、近代が性に与えた特権的な意味付与からきています。その点では、被害者も加害者も、両方とも、近代の性のパラダイムから抜け出せていないということでしょう」(上野・信田 2004:253)
    上野千鶴子、信田さよ子の対談を編した『結婚帝国』にある言葉だ。
     10年前、初めて読んだ時、この言葉が全く理解できなかった。以来、ずっと私の心をとらえて離さなかった。性的な被虐待体験がスティグマとならない世界とは、どんな世界なのか。ここに確かに存在するこの苦しみが、苦しみと感じられない世界なんて想像できなかった。
    長い時間をかけて考えたその道筋を、「PTSDの医療モデルへの回収」以外の道である、「言語化、理論化の方法での『自己申告』」(上野・信田 2004:245-6)によって、表したい。

    3 プロフィール
    団塊世代の両親から生まれた団塊ジュニア。父は会社員、母は専業主婦。関東の郊外に住む、当時の典型的な核家族。家父長制を最善と考える。自分と弟の二人兄弟。父親の飲酒は問題があると考えるが、仕事には影響がないため、問題は家族内に閉塞されている。父親は現在も存命。母親は数年前に急逝している。私自身は20代で結婚し、現在2児の母である。大学卒業時に就いた仕事を現在も続けている。


    4 経験を語ることで私をつくること―PTSDを言語化し自己申告するということ。
     未来が縮小した高校大学時代
    3歳から9歳ごろ…いや12歳ごろまでであっただろうか。数年に渡り実父と知人にセクシュアルアビューズを受け続けていたようだ。「ようだ」と記すのは、確かに示せる証拠が無く、記憶も曖昧だからだ。それは長らく思い出せない空白が存在するという感覚で、意識にのぼることはなかった。しかし高校生になった時、原因不明のめまいや震え、突然やってくる恐怖に襲われるようになった。心理学の本を読み、不安の原因を知ることで回復すると考えた。日記のようなはっきりした形としては残さず、その時の感情や、考えを紙に書きなぐることを続けていた。ある時、突然、頭を殴られたような衝撃とともに、「今・ここで、おきている、見ている」そんな生々しい体感を伴って虐待場面が克明に再現された。それがフラッシュバックというものであるということは後に知ることとなる。圧倒的な無力感、恐怖の記憶の再現。
    フラッシュバックによる再現記憶は二つある。一つは大きな共同便所で知人から受ける虐待場面。もう一つは父親から受ける風呂での虐待場面だ。双方には共通点がある。「女は汚いから、男が掃除しなければならない」「汚いお前が悪いのだ」という理由が語られ、行為の責任は私にあることを意識づけられたことだ。共同便所の記憶は、天井から自分を見下ろしていたぼんやりした風景から始まった。繰り返し再現されるうちに見下ろしていた身体に突然吸い込まれた。その記憶の回帰の瞬間は、殴られるような衝撃が起き、恐怖と痛みに泣き叫んだ。もう一つの父との風呂の記憶はほとんどない。ただ、痛みの記憶と恐怖の記憶。しかしそれが長期にわたり繰り返されたことは、なぜかわかっている。
    それらの記憶に添えられるように、呼び起こされる記憶がある。
    一つは、遊びに連れ出す知人から逃げるべく、私が母の後ろに隠れた時のもの。母が笑って「いってらっしゃい」と、私の肩を押し、送り出した。もう一つ。私は父親に風呂から呼ばれた時は、すぐに裸で走って風呂へ行かねばならなかった。小学生で、「父と風呂に入るのが嫌だ」と作文に書いたことがある。当時の担任は、私が創作していた物語を褒めてくれたため、信頼を寄せていたから書いたのかもしれない。風呂が嫌な理由は、「顔に水がかかるから」か何か、どうでもよいことを書いたはずだ。担任へと同時に、これは母へのメッセージでもあった。しかし、作文を読んだ母は、笑って父親に作文を見せたのだった。その日の風呂は、いつも以上に恐怖であった。ただ、「恐怖であった」ということしか思い出せず、実際何があったかはわからない。
    背中を押す母、作文を見せた母。どちらも、記憶に鮮烈に残る笑顔。これがなかったら、少しは心的外傷としての様相は変わっていたかもしれない。…私は生贄であった。
    これらがセクシュアルアビューズにあたるということは、フラッシュバックが頻繁だった高校当時も、気づいていなかった。性的加害行為を「いたずら」と呼んでいたような時代である。見ず知らずの者から強迫された男性器の挿入こそが、レイプと呼ばれ、見ず知らずの者の性的接触だけが、痴漢であると思っていた。近親者である父親や、親族ほどに近しい知人から自分が受けた行為は、躾の一環、自分の汚さが罪だとしか認識していなかった。ただ、「自分は同級生とは違う」という恐怖は強く感じていた。同調圧力の中で、ばれないように、浮かないように、怯えた日々を過ごした。めまいの原因を探るべく、無我夢中で恐怖の元を考え続けた。
    記憶の回帰を境に、それまでの男子と肩を並べ、勉強でも論説でも負けないと思えていた、のびのびとした自分は消えてなくなり、生きる資格のない劣位の性をもつ自分となった。しかしこれは逆なのかもしれない。記憶が回帰したからそうなったのではなく、肩を並べられないということに気づいたことが、記憶を呼び起こしたのではあるまいか。
    その時から未来は全く見えなくなった。生きていたくないのではなく、生き方がわからなかった。
    心理学や精神医学の本を読んだ。しかし私の望む答えはなかった。なんと、この自分の恐怖を、物語として表現してくれたのは、「花の24年組」1)と呼ばれる、上野と同世代の漫画家たちの物語だった。私の世代では、少々古く感じるものであったが、むさぼるように読み続けた。そしてとうとう、それを批評した、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(橋本 1979ab)に答えを見つけたと感じた。
    「女の子はおかあさんを拒みました。“性”を持っているおかあさん、自分と同じ“性”を持っている筈のおかあさん、でも、自分のようにそれを決して意識しようとはしないおかあさんを拒みました。おかあさんを“おかあさん”のままにさせている世の中全部を拒みました。そしていつかその“おかあさん”になる自分の未来を拒み、自分を押し流す“時”を拒み、すべてを呪い拒む、自分自身をも拒んだのです」(橋本1979b:463)
    フラッシュバックのトリガーは、自分自身の性の目覚め。思春期の、自分の中に湧き上がる衝動性。しかし、私にとって衝動は恐怖として意識された。恐れは加害者に向かっているのではなく、自分が加害者となり得ることであった。しかし、いくら自分の性を恐れ、憎んでも、自分は生きていた。
    「拒もうと憎もうと呪おうと叫ぼうと何をしようと、そうする自分は生きているのです。生きている以上、自分は何かを信じたいのです。そして生きて行くということは、自分の“美しさ”を信じて行くことなのです」(橋本 1979b:463)
    ではどうやって生きていけば良いのか。どうすれば自分の美しさを信じられるのか。「再び歩み始めた少女の道は、“時”の作る道ではありません。彼女を一人置き去りにしていった、その“時”の通った跡を辿って行くのではありません。少女が歩き始めた道は、“意識”という、全く新しい時間の道でした」(橋本 1979b:464)
    この、新しい道が、私にはわからなかった。自分には道を作り上げることができず、もがき続けた。性を拒み、成熟を拒んだ自分は、拒食、過食を繰り返すようになった。時を止めたかったのだ。
    そして、10代最後の夏、とうとうフェミニズムに巡り合う。“意識”の道が、ここにあった。『性愛論』(上野 1991)に出会い、衝撃を受けた。性を語る女の言葉がそこにあった。母親世代が夢見た「対幻想」という言葉もこの著作から知った。性欲、性交、性愛を分析し、女の立場で言語化し、男の性の神話を打ち砕く。探し求めていたものはこれだったという確信があった。フェミニズムの思想は、性を拒み時を止めていた私の時間を進めるものだ。様々な書店を探し回った。絵本の好きだった私は度々表参道のクレヨンハウス2)を訪れていたが、その3階に、女性の本の専門店のコーナーがあることを知り、足繁く通った。ある時一つの書名に目が引き寄せられ、逸らすことができなくなった。『沈黙をやぶって』(森田編 1992)。それを手にした時の、激しい鼓動と手の震えは忘れられない。自分だけではなかったという思いで涙がとまらなかった。『沈黙をやぶって』には子どもへの性暴力の証言が記されていた。その中に、宴会の席で先生が自分を抱き上げ、その場の皆にパンツを見せたことの被害の記述がある。(森田編 1992:115)特にその章が私の心を動かした。私は、自分の経験を、躾の一環、自分の汚さが罪だとしか認識していなかったからだ。宴席で行われたその冷やかしは、この著者にとって嫌な記憶であり、性暴力であり、それを行った者たちへの反省を促していた。そう、私は傷ついていたのだ。私が嫌なものは、それは性暴力なのだ。躾や愛情からの行為という男の理論に従う必要なんてない。私の「イヤ」は私が決めて良い。
    橋本の言う「“意識”という、全く新しい時間の道」。その道は何なのか。「おかあさん」と「性」を拒み、新しい「意識」の道を進む。これは、フェミニズムの言説(田中2004:338)に沿えば、「『母』と『便所』の二重規範からの『解放』」だ。
    男に選ばれることが女の価値ではないのだ。自分の19歳の日記に、「バカだ、クズだ、何とでも呼べばいい。自分の存在証明ぐらい、自分でしてみせる」と記している。その暗中模索だった自分のあがきを、自分の言葉で表し、闘う、先人たちがいたのだ。もがき、苦しんだこの時に、フェミニズムの思想に出会えなかったら、私は今ここにはいないだろう。

     聖母を目指し、力尽きて、フラッシュバックが再発した子育て期(30代)
    『ザ・フェミニズム』での、上野と小倉千加子の対談の中に、小倉が「嫌いなもの三つ」の中で「結婚しているフェミニスト」と挙げ、猛バッシングを受けたことがあるという記述がある。(上野・小倉2002:93)
    この言葉は、ずっと自分の中に根強く残っていた。私は二人のようなフェミニストになりたかった。自由に性を語り、近代の枠組みを疑い、抗いたかった。しかし、自分が父の性の管理から逃れるために、結婚は一番楽な選択だった。上野の言葉に、「結婚はセキュリティグッズ(安全保障財)、(中略)それだけの理由では、私は保険に入らない。とりわけ、自由を求めるフェミニストが、自らの身体の自由を進んで手放すなんて、信じられない。」(西川・上野・萩野 2011:218)とある。私はその自由が怖かった。誰にでも使用可能な身体をもてあましてしまった。自由を進んで手放した。安全保障財を欲していた。
    20代の半ば、結婚・出産し、生活していくことを選んだ。私には、母から結婚するための条件が出されていた。それは幼き頃から、ささやき続けられ、自分が選択したように仕組まれていたことだ。手綱は母が握っていた。「女は仕事を辞めてはいけない」「結婚するなら、私(母)の近くでなければ仕事は続かない」私は結婚の条件から外れることはなかった。父親の性の管理から逃れ、経済的に自立し、夫という「力」を得て、母親を家事労働の資源として近くに置くことで、母と私の理想の家族の在り方が実現した。
    母の理想を実現し、父の管理から逃れ、順風満帆に見えた。多くの親がするように、私は長男を地域の野球チームで活動させた。PTA活動にもそこそこ参加し、親業をこなしていた。しかし、女児を孕んだ不安に、上野の本を胎教にしたような自分には、もとより限界が見えていた。子育てに関わる人間関係では、暗黙に求められる規範が、あまりにも女の能力を限定していることに、疑問と不満が蓄積していく。野球チームは、監督を中心とする家父長的なチームだった。私は、自分の我慢に限界を感じながらも、チーム全体を大きく変える動きはしなかった。ただ、自分の回りを、仕事をしている母親で固め、当番と呼ばれる雑用係の仕事内容や分担の見直しをした。少しだけ息のできる隙間を作りたかった。大きな声をあげたつもりはなかったが、絶対的な権力をもつ監督には、とにかく嫌な女として見えたようだ。正面切って批判されるようなミスは犯していないが、ある時、酒の席で、監督の不満が言葉となった。「酌もできないダメ母」という監督の言葉に、なんとフラッシュバックが再発した。自分で立ち上がり、息のできる場所を作っていたつもりだったが、こんなにも脆弱な自己像しか作ることができていなかったことを思い知った。母親業は、全く立ち行かなくなった。近所の買い物すら行くことができなくなった。
    その時のフラッシュバックは、弟にけがをさせた場面だった。私との言い争いの末の事故で、弟は大けがを負った。私は、父親に殺されるかもしれないと、怯えて震えた。助けを求めた母親の背中は、拒絶を示し、真っ暗で冷え冷えとした廊下がどこまでも続くようだった。母親自身が、息子の事故によって自分が夫からどんな仕打ちを受けるかの恐怖に凍り付いていたのだ。この事故は、弟が無事に一命をとりとめ、後遺症もほとんどのこらず回復した後は、良く語られたことであった。語られても、私に感情の変化が訪れたことはなかった。しかしこの時のフラッシュバックで、初めて圧倒的な恐怖と孤独と悲しみがどっと押し寄せてきた。その当時の感情はこれまでずっと封印されて来ていたのだった。男が男であるというだけで、無自覚に享受する権利と、それを一生得られない自分の奴隷的存在性を、身に切り刻まれた、一番古い記憶の回帰。自分の性に疑問をもち、生きられる隙間を奪われていく記憶のひとつ。
    何か問題がおきると、フラッシュバックが私を立ち止まらせる。調子に乗って出しゃばり始める度に、劣位の性・奴隷の性であることの記憶が、呪いのように私を引き留める。父の所有物であった自分が、他人にセクシュアルアビューズを受けた幼き頃、一番心配だったのは、父が激怒し、加害者と自分を殺しに来ることであった。便所の中、汚物の広大な海に落とされかねないという、抗うことのできない恐怖の中で受けた虐待だが、それを親に打ち明けられなかったのは、私を恐怖させた加害者と自分が殺されるかもしれない更なる恐怖からだ。それは、殺される恐怖と同時に、親を犯罪者にしてしまうかもしれない恐怖だ。
    自分と言う商品は、ずっと必要ないものであると感じていた。大人になり、自由な性を手に入れたはずなのに、いつでも誰かの誰にでもの「公衆便所」になりかねない自分の身体を、恐れ、嫌い、呪っていた。自身の虐待が公衆便所で起きたことは、皮肉なことだ。幼少期から続いていた悪夢は、いつでも誰でも出入り可能な便所で排尿しなければならないという、ベタな夢だ。睡眠はいつでも細切れだった。夜は嫌いだった。
    上原隆の言うように、私は「股間に穴のあいている肉の塊にすぎな」3)(上原1992:64)かった。学生時代「自分で自分の存在証明くらいしてみせる」と日記に書き、いきがっていたが、性の自由を求めることを諦め、代わりに結婚というセキュリティグッズを選んだ自分は、自分の性を「美しい」と信じる力を失っていた。性を否認し、聖母を目指し、そして力尽きた。私はただの、穴のあいた肉の塊だった。しかも、汚く醜い穴しか持ち合わせていない。意識を持ち、歩み始めたはずの道は、行き先を誤り、家父長制の重圧の下に押しつぶされてしまった。もう息のできる隙間がなかった。
    八方ふさがりの自分には、症状行動しか残されていなかった。

    アーティストになれなかったので、テロリストではなくセラピストになろうと思った
    ~40歳の再出発~
    「私はテロリストになる代わりにアーティストになった。」ニキ・ド・サンファルの言葉(上野 2004)は、身に染みる言葉だ。フラッシュバックが激しく、勉強が手につかなくなった高校時代、芸術に救いを求めた。その歩みは間違いではなかったはずだが、出産後は聖母幻想に取りつかれ、再び踏み外してしまっていた。アーティストになれなかった自分は、自分を害するテロリストになってしまった。自傷、めまい、震えが頻発するようになり、自分ではもうどうにもならないと感じた。上野の著作から知った家族問題に詳しい医師主催のワークショップに参加することにした。
     そんな中、突然母が亡くなった。誰もが驚き、信じられない、突然の死だった。
    母にまつわる様々なフラッシュバックが頻発した。母の叫び声、あざだらけの顔、蹴り飛ばされる母、「勘弁してください」「そんなことしていません」泣き叫ぶ母の声。中でも、新聞勧誘員と楽しそうに話をする母に激怒した父が、母を玄関へ引きずり倒し、「てめえ、連れ込んでやってんじゃないだろうな」と言った言葉が鮮烈に思い出された。私は泣きながら、夜の町へ飛び出し販売員を探した。母を助けたかった。「そこへしゃがめ」「殺されたいのか」夜な夜な繰り返される、父からの罵倒の言葉。こんな昔の記憶が、未だにこんなに鮮明に思い出されなくてはならないのか。
     藁をもつかむような、溺れた状態で掴んだものが、その医師主催の『アドバイザー養成講座』であった。自分を当事者と思う者が、ピアカウンセラーになるという。アーティストになれなかったテロリストは、セラピストになろうとした。
    200時間に及ぶ精神医学や心理療法についての講義を受講した。自分の症状に拘泥するのではなく、精神医学や心理療法を全般的に学び、それをピアのために活かすという発想は、これまでの負の経験を財産とするものであった。アドバイザーの資格を得た時は、高校時代のフラッシュバック以降失った世界を取り戻したような実感だった。負の記憶が意味をもち、力となる。色を失っていた世界が、再び色をもった。感情や感覚の輪郭がはっきりした。今になって、自分は少しだけ解離して過ごしていたことがわかった。紗幕がかかったような世界が日常だったのだ。
    講座を経て、解離した世界を生きてきたことを知り、自己理解も進んだ。母親を亡くした当時、父親はまさしくモンスターと化していた。その頃私は、実家に近づくことが、殺人鬼の館を訪れるような恐怖を伴っていた。実際は妻に先立たれた、何もできない小さな男であったのに、ありのままの姿が見えなかったのだ。自分は母の死を境に、母の口癖がふと口に上るようになっていた。母同様に、父を恐れ、気遣い、一刻も早く帰宅しなければいけないという強迫観念にかられていた。これが親密な関係の対象を失った「対象喪失」(小此木 1979)によって起こる部分対象の取り込みであることに気づいたのは、講座を受講したからである。母親の癖を取り込んでいることに気づいたとき、これまでの自分のものの見方全てが、母の視線を介していたことを知った。そんなことは、とっくに『お父さんには言えないこと』に書いてあった。「毎日、ほとんどすべての時間を専業主婦である母親と共に過ごしつつ成長するこどもは、自分というものが出来あがる前にまず母のコピーであるのです。」(清水 1997:210)本で読んでも、それを自分の経験と実感に即して考えられるようになるのは、機が熟さねばならなかったようだ。私は、母を介さない自分の目で、父親を、家族を、社会を見つめ直さなければならなかった。


    5 私を作り直すためのフェミニズム ~生「上野千鶴子」体験~ 
    2015年夏。精神科医と上野の対談が行われた。上野は、「AC論を人口に膾炙した責任をどう考えるのか」と言及した。「人は、親のみでなく、社会から複合的に影響を受けて成長するものだが、AC論は全てを親の責任としている」と。4)
    自分を自分たらしめたこの社会の構造を考え、親を歴史的、文化的に分析し、そこに位置づけたとき、どのような世界が見えてくるのか。それはとても興味深い考察であった。
    その場で、さらにもう一つ疑問が生まれる。「東電OLは、男性の欲望に値をつけたのだ」という上野の言葉に、「わからないな」「売れなくなったから値を下げたとしか思えない」と応じた医師に、私は困惑した。
    私は東電OLに共感がもてる。仕事で成功を収め名誉男性を目指した女は、間もなくガラスの天井の存在に気づく。女であることを痛切に意識せざるを得なかった時、男になれなかった女は、自らの性を呪う。性を貶め侮蔑するために、娼婦となる。男になれなかった理由である女性性に、高い値段はつけたくない。男のちっぽけな、侮蔑すべき欲望の対象としての女性性は、安価でなくてはならない。こんな安っぽい、馬鹿みたいなことで自分の出世は阻まれた。性が自分の仕事上の実績よりも価値があるなんて認めたくない。男の欲望で動く世界の虚像に価値はもたせたくない。…言葉としなくても、自然と共感できる思いがある。東電OLは、食欲さえもコントロール可能であった。過食や過食嘔吐することなく、ストイシズムに嗜癖していった。ストイシズムに酔う彼女には、性欲は存在しなかったのではないか。男性の支配欲を逆手に取り、金を得ることで欲望からも優位に立つ。しかし性的対象としての女性の価値には重きをおけないミソジニーに完全に捕らわれ、死をも覚悟する気持ちで、自らの性をドブに捨てていく。
    そんな私の共感は、その医師には理解不能だという。彼は、多くの摂食障害者、性虐待被害者の治療に携わっている著名な精神科医だ。男性の理解の限界ということなのかもしれない。そもそも、私が学ぶべきは、男の理論ではなく、女が作る言説なのではなかったか?混乱した私は、この対談以後、上野の講演を追い続けた。


    6 考察―PTSDを理論化して自己申告するということ。
     親を歴史的、文化的な、複合的要素で理解する
    信田・上野の著作は、どれも親の理解に大変役立った。ACという言葉もDVという言葉も、被害者側からの定義で決まる。私はずっと、自分を被害者として定義できていなかった。自分は、母親目線で世界を見ていた。母親こそが被害者であり、父はもちろんであるが、自分も母への加害者として定義されていたのだ。セクシュアルアビューズを受ける子どもは母親の地位を脅かす。母を脅かす悪い子は、母の承認を得るために、母のために生き、母の要求を敏感に察知できなければならなかった。幼い時、嫌なことをされるとわかっていながら、知人の男性に付いて行ったのも、父と風呂に入ったのも、母の笑顔があったからだ。日々の父からの暴力に疲れている母には、一人だけの時間が必要だと、幼い自分は感じたのだ。そして私は大人になってからも、さらには母を亡くしてからも、母親を一番理解しているのは自分だと信じて疑ったことは無かった。
    いったい母とは何者なのか。娘が経済的にもサポートできる状況で、母はなぜ離婚しなかったのか。そこには「選択とプライドのパワーゲーム」(上野・信田 2004:198)があったこと、ロマンチックラブイデオロギーという幻想が母親世代には強固に信じられていたことを知った。父親とのロマンチックラブからの結婚、それを崩すことのできないプライド。母親の幻想の中には、私は存在していなかった。もとより、私は母を救える者ではなかったのだ。
    母は、父を看取り、女友達と楽しく過ごす日をずっと夢見ていた。自分の家事能力を使い、娘の経済力を利用し、その基盤を着々と作っていた。母は、本当はしたたかでしなやかな女であった。決して一方的な被害者ではなかったのだ。被害者としての母目線で世界を見ていた自分に気づいた時、父親を等身大の人として理解することが可能になった。そして、等身大の自分をも見ることができた。私は、経済力も一般的な社会的地位も手にしていた。趣味を共にする友人もいる、力のある自分であった。父親は、妻に先立たれ、縦のものを横にもできないような家事能力で、友達もおらず、趣味もない、とても小さく哀れな老人であった。決して過去の虐待を容認するわけではない。許せない行為は許さないし、現在弱者となった父が、それでも力を誇示した時にはすぐに離れるつもりでいる。しかし、抑え続けた怒りを個人の問題として、今や弱者となった父だけに向ける必要はなくなった。
    「不愉快なものの構造を理解すると腑に落ちる」「オヤジも大変なんだなあと、同情する」これは、2016年4月の岸政彦との対談での、上野の言葉であるが、上野の言うように「構造を知ると、憎らしいオヤジにも同情できる」のだ。

    分かち合う場・闘う言葉
    「男は、個に還ればチャーミング。群れると壁になる」
    2015年、10月。高円寺での『何を恐れる』5)トークイベントでの上野の言葉だ。
    私は、男の群れ、「オヤジ社会」の壁の全てを父に投影したため、巨大に見えた父親を、恐れ、憎み、恨んでいた。しかし父親もまた、オヤジ社会の言説にからめとられ、虚像を描かなければ生きられなかったことを知った。それは上野の講演を追いかけ、信田の講座を受講し、著作に触れることで、近代家族の幻想を知ったからこそ至った視点だ。父もまた家父長制の壁に押しつぶされた被害者だったのだ。
    家族問題に閉塞させては、壁の存在に気づけない。私にとって、家父長制を前提とした近代の性のパラダイムこそが、堅牢で巨大な壁だったのだ。PTSDを医療モデルに回収し、問題を個人に収束させることでは、壁は見えず、崩すこともできない。そして一人では壁は崩れない。だからこその「自己申告」なのだ。
    自己申告によって、申告者が集い、力を生む。
    韓国江南のミソジニー殺人の現場には多くのメッセージが寄せられていた。
    「私はたまたま生き延びた。生き延びた私は沈黙しない。」「殺されたあなたや性虐待を受けてきた私のような女性がこれ以上生まれないように」6)
    私もたまたま生き延びた。
    生き延びた私は沈黙しない。
    生き延びる思想を与えてくれた、フェミニズムの言葉で、「自己申告」したい。オヤジ社会への宣戦布告だ。
    ずっと、とらわれ続けてきた性的虐待記憶。私をつかんで離さなかったもの。
    記憶はなぜ封印されなければならなかったのか。きっと、それは許容できない恐怖や痛みが伴っていたからだ。それでは忘れておけばよいものをなぜ解凍させ、とらわれ続けなくてはならないのか。今の困難が昔の封印した困難を呼び起こす。男社会である認識をもてと迫られた時、記憶が呼び起こされる。記憶は、必ず意味を伴う。絶対的な無力の記憶が、現在の葛藤からの逃避か適応かの選択を求めて、記憶の再編を、自分の作り直しを迫るのだ。蘇る恐怖は、恥辱を伴うスティグマへと、再編成される。男による支配と所有の刻印。なぜ男は支配するために、性を利用しなければならないのか。本来、男であることは、ただそれだけでは優位でもなんでもない。その虚像を隠すために、女を貶め、劣位を刻印するために性的虐待が使用される。性的虐待を使用しなければ保たれないほどの、脆弱な男によって、それはなされる。恐怖により口をつぐませ、男の絶対的権力を誇示するその行為は、当人によって語られないことによってスティグマとして完成する。私的領域として、公的には語られなかったことを語りだしたとき、それはスティグマとしての性的虐待からただの記憶へと、変化していくはずだ。語りだすことだ。隠された世界を。虐待者たちの虚像を。


    7 むすび~すべては「オヤジうざい!」の叫びへと~
    長い時間をかけて、わかったこと。
    私は、男社会に怒っていたのだ。その怒りを、感じてはいけないこととして抑圧し続けていた。だから古い記憶を回帰させ、症状行動を必要とした。
    私の性器は私のものだ。汚いだの、男のものだの、とんでもない理屈がまかりとおる、その可笑しさは、先人がどれだけ言葉にして運動してきたことか。「子宮をとりもどす」ために。
    私にこれから必要になるのは、女の言葉だ。ふとした出来事で過去の記憶が襲ってくるような脆弱な自己を、鎧う思想が、言葉が必要だ。サバイバルスキルを身に着け、男性視線を内在化した自分を意識しなければならない。そして自分の周辺のうざいオヤジに闘いを挑み、息ができる隙間を勝ち取らなければならない。女の道は険しい。先人の闘いに感謝し、学び、受け取りたい。バトンを次代へつなぎ7)、“意識”の道を走り抜けたい。
     「うざいオヤジ」と闘う言葉を身に付けたい。症状行動を起こして逃げなくてもよい、言葉が、力が、ほしい。自分が、劣位の性、奴隷の性、ではないと語れる言葉を身に付けたい。険しい道でも、それがフラッシュバックからの卒業であり、生き延びるためのスキルだ。今、自分に向き合い、女であることのつながりと、力を信じ、自らの性について言葉を発したい。


    8 これからの道すじ
    『結婚帝国』の問い、まず一つ「PTSDの医療モデルへの回収以外の道としての『自己申告』」を行ってみた。行ってみたが、問いはまだまだ残る。「近代が性に与えた特権的な意味付与」から自由になる道は果たしてあるのだろうか。例えば、このような問い。「オマンコを触られることと、肩を触られることが同じだ、というふうに考えれば、それですんだことが、何でオマンコを触られたらこんなに屈辱的に感じなきゃいけないのか」(上野・信田 2004:242)。これについて私は、肩だろうが、性器だろうが、私が嫌なものは嫌だと言って良いと考えている。そして嫌であるのになされるものは、すべてアビューズだ。しかしそれらをアビューズと認められる力は子どもには無い。だから私は、かつての被害者として、私の「イヤ」を決め、声にしたいと思う。例えば、身体接触がなくても家族から性的な視線を向けられること、言葉で辱められることなど、今は性暴力とは定義できない事柄が、実際には被害者は混乱を起こし、大人になってからでも深い傷つきをもたらしていることを示したい。それを示すためには、まだまだ言葉が足りない。当事者研究とはいっても、まだ入り口に立ったばかりだ。「フラッシュバックのトリガーと、想起する記憶の関係性」「感覚過敏の分析」「インセストサバイバーは20代で語ることができるか」など、考えたい課題はたくさんある。私はこれらのいくつかの当事者研究を通して、家族内性暴力について被害者側から定義し直すような声を挙げていきたい。
    今後も過去の苦痛はフラッシュバックしてくるだろう。そして「どうしてこの私に?」(信田 2015:227-8)8)という終わりのない問いが、これからも度々訪れるだろう。
    沈黙を破り、語ることで自分を作る。それを自己申告することで、弱さでつながる関係を育み、当事者研究を続けていく。奪われた言葉を取り戻していくための歩みは、私が生きていくための必要である。




    花の24年組:萩尾望都、大島弓子、竹宮恵子、青池保子、山岸涼子など、同世代の漫画家たちが、性や愛、母と娘の問題などを正面からとらえ、革新的な漫画を描いた。
    クレヨンハウス:1976年、落合恵子が開いた、絵本の専門店。地下にはオーガニック食材の店やレストラン、3階には女性の本の専門店がある。
    上原,1992:64「彼らにとって、女性は性的欲望の対象でしかない。その女性が保険の営業員であろうと、店員であろうと、歯医者であろうと、弁護士であろうと、彼らにとっては胸が出ていて、股間に穴のあいている肉の塊にすぎない。」
    ACはアダルトチルドレン(機能不全家庭で育った人)のこと。児童期の虐待経験は、全ての原因を自分に求める。親から自分へ向けられる暴力も、父から母へのDVも、どんなことでも自分の責任ととらえてしまう。ACは「すべて自分が悪い」と考える癖をつけたまま大人になっている。そのため、原因を、一旦「自分ではなく親の責任」として、身に付いてしまった罪悪感を手放すことは、大変重要な過程だ。しかしそのまま親への不満を語り続け、その場に留まることを危惧した発言である。
    ドキュメンタリー映画『何を怖れる』 監督:松井久子 製作「フェミニズムを生きた女たち」をつくる会 制作・著作:株式会社エッセン・コミュニケーションズ
    2016年5月、韓国江南駅近くのトイレで起きた事件。23歳の女性が面識のない男に殺害された。犯行動機が「女たちが自分を無視したから」だということから、「ミソジニー殺人事件」と呼ばれた。犯行現場の江南駅周辺には、付箋紙を使った多くのメッセージが寄せられた。付箋の言葉を、現地を訪れていた上野に、チョウ・スンミが日本語訳している。
    上野千鶴子twitter 6月4日より チョウ・スンミ訳
    事件については『ミソジニーに対抗する韓国の女たち』キムディオン WANポータルサイト参照
    7) 上野千鶴子の東京大学最終講義での最後の言葉は「(バトンを)どうぞ、受け取ってください」であった。『生き延びるための思想 新版』岩波現代文庫に掲載されている。WANポータルサイトにも動画として掲載されている。
    8) 信田,2015:228「あらゆる被害者たちが繰り返し自分に問いかけ、時には神や仏に向かって問いかけるのは、いつもこのようなフレーズである。自分たちのこうむった苦痛がまったく無意味であり、風に舞う木の葉が地面に落ちて朽ち果てるのと同じであることに人は耐えられない。自らの受けた被害・苦しみに「意味」を与える信念体系を再構築しなければ、被害者は生き続けることすら困難になる。」

    参考文献
    上野千鶴子・信田さよ子,2004,『結婚帝国女の岐れ路』講談社
    上野千鶴子,1991,『性愛論』河出書房 
          2004, 『ニキ・ド・サンファルのふたつの『自伝』から』日本嗜癖行動学会誌 
    上野千鶴子・小倉千加子,2002,『ザ・フェミニズム』筑摩書房
    上原隆,1992,『上野千鶴子なんかこわくない』毎日新聞社
    小此木啓吾,1979,『対象喪失』中央公論新社
    清水ちなみ,1997,『お父さんには言えないこと』文芸春秋
    田中美津,2004,『命の女たちへ』パンドラ
    西川祐子・上野千鶴子・荻野美穂,2011,『フェミニズムの時代を生きて』岩波書店
    信田さよ子,2015,『加害者は変われるか?』筑摩書房
    橋本治,1979a,『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ前編』北宋社
    1979b,『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ後編』北宋社
    森田ゆり編著,1992,『沈黙をやぶって』築地書館 

関連する論文

  • 博士論文データベースを通して見る女性学/ジェンダー研究の40年

    2019/01/01

    • リサーチ

    著者名:内藤和美

    コメンテーター:原ひろ子(はら ひろこ)

     原 ひろ子(お茶の水女子大学名誉教授)  日本の女性学・ジェンダー研究の学問構築から約40年の節目に、知の集積・資源の提供を目指す博士論文のデータベースをまとめられ、紹介されたことは意義があり、ご尽力された内藤和美さんに敬意を表します。このようなデータベースは、①これらのデータの詳細な分析により、ジェンダーに関連する学術的な傾向や特徴を可視化するなどして、これを基に知の共有化につなげられること、②研究者や学生の皆さんが、自分のテーマに関係する論文や関心のある論文を検索、閲覧できるようにして研究の助けになることの2つの視点から有益であると私は考えます。 一方で、内藤論文を見て、データベースを用いた分析は、まだまだ発展する可能性があるように感じました。  以下に、内藤論文を見ての振り返りや意見を述べたいと思います。 (1)学位の種類と名称  学位の種類と名称について、本調査では「学術」が約2割を占めるという点に着目されていましたが、最後に述べられているように、「博士(学術)」は各大学や研究科に依存するため、「博士(学術)」が多いということをもって何か評価をするのは難しい面があり(注)、結局は、個々の論文を読まないと本当の事は見えないでしょう。今回示されたデータ(表5)を見ると、人文社会科学を中心に多様な形で学位が出ていますので、例えば、当初10年間と最近10年間で出ている学位の種類・名称を比較すると、時代とともに女性学・ジェンダー研究において多様性が増している姿が見えてくるかもしれません。私としてはそう感じていますが、それが可視化できれば、広く共有することができます。 もう一つ、学位には日本語表記だけでなく、英語を用いた表記がある点も注意したいです。例えば、お茶の水女子大学では、日本語で「博士(学術)」と表しつつ、英語ではPh. D. in Gender Studiesを授与している事例もあり、このような点にも留意することが重要と考えます。論文に即し様々な取組が可能であり、英語でGender Studiesが学位名称に組み込まれれば、こうした表現が人々の目に触れ、周知され、賛否両論に関わらず、やがて市民権を得ていく足がかりになるでしょう。 (2)学位授与機関のこと  お茶の水女子大学(以下、お茶大)が学位授与機関として、女性学・ジェンダー研究による学位が群を抜いて多い(内藤論文で用いた検索語に基づく)点は、当該研究機関で働いた一員として喜ばしいことだと思いますし、私だけでなく多くの関係者の尽力によるものです。その要因は複数あると考えます。まず、①当該機関は、1975年の国際女性年第1回世界会議の年に「女性文化資料館」を設置し、女性差別撤廃条約批准後の1986年には「女性文化研究センター」を設立、1993年には博士課程に「女性学講座」を新設し、「比較ジェンダー論」と題する講義を始めるなど、「女性学・ジェンダー研究」に組織として位置づけて推し進めてきたことです。私も、その中で女性学・ジェンダー研究という、当時定着しにくい状態にあった学問領域を認める道筋を作るために効果的な行動や発言を常に考えて仕事をしていたように思います。また、②お茶大が研究機関としては女性教員が他の国立大学に比して多く、女子学生たちのロールモデルになりえたこともあります。そして、③最も大きな要因は、お茶大が、小規模国立大学ながら大学の存立基盤として、博士課程・博士号授与者を多々輩出することに力をいれていたことです。その意味では、当該教職員たちは、申請者のため、大学運営とその発展のため、実によく働き多忙な職場でした。 また、データベースで分析した結果をもとに、その対象を絞り込んで、インタビューなどの調査をしたり、違うデータを分析したりすることで新しく見えるものがあるかもしれません。  「表5、登録論文の学位授与機関の分布」について、件数の多さだけでなく、その広がりについても着目すると良いと思います。「他」の機関の240件に関し、例えば、その機関数を示したり、授与機関名を注に列記したりすることで、意外な発見があるかもしれませんし、件数が少数であっても、このことを可視化する意義や効果もあります。 また、学位の種類と同様に、例えば、当初10年間と最近10年間の学位授与機関を比較することによって、時代とともに女性学・ジェンダー研究の博士を輩出した機関の数や各機関における取組などの変化を可視化できれば、有意義でしょう。 (3)抽出に用いたキーワード・包摂した表現  内藤論文では、女性学・ジェンダー研究における基本的なキーワードをもとに整理・分析されたことと思います。一方で、表2-1及び表2-2に列記されているキーワードで論文を抽出されていますが、現状を考えると、このキーワード以外にもいれるべきキーワードがあるようにも思います。更に、時代とともに、抽出のためのキーワードはさらに増えていくことになるでしょう。例えば、既存の学問の対象にはなり得なかった課題群に光を当て、研究・究明がなされるとき、既存のカテゴリーや名称は役に立たなくなります。それは「そこに問題や・課題群がある」とする研究者たちによって、最適な概念や言語が見いだされ、創出され、カテゴライズされていくからです。また、過去の論文も含め全体を一貫して同じキーワードで抽出することで、傾向をより正確に見ることができるかと思います。 (4)さらなるデータ分析の精緻化に向けて  内藤論文で挑戦されたデータベース化した論文群の分析について発展させるためには、データ分析や標本となるデータの取り扱いの精緻化が重要であり、これに関していくつか気付いた点を述べます。 第1に、分析に用いる標本となるデータの取り扱いで、これは分析に客観性と説得力を持たせる上で重要です。例えば、内藤論文で述べられているように、2015年以降に関しては、未だ正確なデータ公表に至っていないことを考えると、時系列的な分析や傾向分析を行う際には、分析のねらいに応じて分析の標本に加えるべきか十分に精査することが必要です。また、博士論文は1年毎に見ると、どうしてもばらつきがあり、単年度の論文数で傾向を評価するのが良いか、それとも例えば5年間、10年間といった数年分の論文の数を単位標本として評価すべきかは議論があると思います。 第2に、分析の前提となる仮説と検証の精緻化です。このような分析は見えなかったものを可視化するだけでなく、女性学・ジェンダー研究関係者が感じていたことを多くの人に共有できる形で可視化するという視点が大事だと思います。そのためには、分析を行う当事者は検討する際に、例えば、この分野の他の研究者の分析や学会などでの議論を参考にしたり、論文データ等を用いた分析学、書誌分析学の知見を取り込んだりして、広い知見を活用することが有効だと思います。  最後に、本データベースとその活用・分析が発展していくことを期待します。今後のデータベースの共同運用化と可視化、国際比較への道筋、精緻な内容的・史的分析につなげることができれば、今後の女性学・ジェンダー研究の発展の一助になっていくことでしょう。 注:博士の種類・学術博士の由来:「文部省(現 文部科学省)『平成3年度 我が国の文教政策』によれば、「博士の種類は,昭和31年,学位規則により,従来の伝統的な博士を中心に17種類が定められた。その後,昭和44年に保健学博士が追加され,昭和50年には,学術研究の進展に柔軟に対応する必要があることや,博士の学位は,学問分野のいかんにかかわらず,一定の水準を示すという性格を有するものであり,その種類は簡素化することが望ましいことなどを考慮し,学術博士が設けられた。学術博士は,学際領域等既存の種類の博士を授与することが必ずしも適当でない分野を専攻した者に授与するという運用がなされてきている。」、そして「平成3年2月,大学審議会から「学位制度の見直し及び大学院の評価について」答申が行われたが,学位制度の見直しについての主な内容は次のとおりである。<br>    ア:博士の種類について,○○博士のように博士の種類を専攻分野の名称を冠して学位規則上限定列挙することは廃止し,学位規則上は単に博士とすること。 イ:各大学院において博士を授与する際には「博士(〔専攻分野〕)」のように,各大学院の判断により,専攻分野を表記して授与すること。 」 ウ:従来の学術博士と同様,学術分野や新分野を対象として「博士(学術)」と表記することもできること。 エ:修士の学位についても同様とすること。 文部省としては,この答申を踏まえ,平成3年6月,学位規則の改正を行った。」(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpad199101/hpad199101_2_152.html)  また、大学改革支援・学位授与機構が毎年、国公私立大学で授与される学位に付記される名称(日本語、英語)を調査している。平成28年度調査結果によれば、女性学やジェンダー学/研究を付記した学位は存在しない。

    > 論文を読む
  • アトピー性皮膚炎は母親の責任か? 2018/05/19

    2018/05/19

    • リサーチ

    著者名:奥津 藍子

    コメンテーター:雨宮 処凛(あまみや かりん)

     読みながら、何度も「そう、まさにそうなの!」と口に出しそうになった。  アトピーという、命に関わらない病気が蝕む子どもと母親の心。本論文に書かれているように私の母親も私と弟のアトピーの治療に奔走し、民間療法に手を出し、コロコロ変わる食事療法のブームに振り回され、ステロイドを巡って錯綜する情報に翻弄され、多大な時間とお金を費やした。しかし、それでもよくならなかった時の罪悪感ときたら。 ある時期から、気づいていた。母が苦しんでいるのは私たちの病気だけではなく、偏見だということに。 「子育ての仕方が悪い」かのように言う人もいれば、「妊娠中の過ごし方が悪かった」というような論調もあった。母はことあるごとに私たちに謝った。なぜ、謝ったのか。それは「自分がいい母親でないから子どもたちのアトピーが治らない」と母もまた思い込んでいたからだ。 「愛さえあれば治る」という、科学的根拠をまったく無視した当時の言説に母は追い詰められていた。ガンなど他の病気であれば決して「母の愛があれば治る」なんて言われないのに、なぜかアトピーにだけ過剰に求められる母の愛。そして多くの家庭がそうであるように、アトピーをめぐる記憶に父の姿はほとんど登場しない。 アトピーと母親という問題には、ジェンダーをはじめとして、この国の歪みが存分に詰まっている。そして母親は到底負えない責任を負わされて孤独な戦いを強いられてきた。が、アトピーと無縁の人たちにはまったく知られていないだろう。私が子ども時代一一主に80年代になる一一の母親たちに何が起きていたのか、この論文によって、改めて多くの発見があった。意欲的なテーマに取り組んだ著者に、拍手を送りたい。

    > 論文を読む
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