WAN女性学ジャーナル

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  • 奪われた「言葉」と「記憶」を取り戻すためのフェミニズム ~セクシュアルアビューズサバイバーの当事者研究~ 2018/05/19

    2018/05/19

    • リサーチ

    著者名:荒井 ひかり

    1973年生まれ。東京都出身。1996年 美術大学卒業。 油絵専攻。 子どもに絵画や工芸を教える仕事に従事している。 第29回 WAN上野ゼミで当事者研究報告を行った。 2015年よりWAN会員。 現在WANボランティアスタッフとして、女性の権利について考え、活動している。

    奪われた「言葉」と「記憶」を取り戻すためのフェミニズム ~セクシュアルアビューズサバイバーの当事者研究~ 2018/05/19

    論文概要:

     本論は、当事者研究として、性的虐待を受けた経験を、フェミニズムの言葉により定義し直し、自己を取り戻していく記録である。
    上野千鶴子、信田さよ子による対談『結婚帝国』を主題とし、『PTSDの医療モデルへの回収以外の道である、言語化、理論化の方法での自己申告』を実践する。
    これにより、自らの経験を安全な場で語ることが、心的外傷からの回復の道であるということを示したものである。

    ABSTRACT
    Feminism to Recover Divested Speeches and Memories
    This article examines how a sexual abuse survivor has learned to use the vocabulary of feminism to redefine her experience and reconstruct herself. It is also a document of toujisha kenkyu 当事者研究, which is known among Japanese feminists as experience-based research conducted by and for the toujisha: the concerned party. Mainly referring to talks between Chizuko Ueno and Sayoko Nobuta in a book entitled Kekkon Teikoku: Onna no Wakaremichi (The Empire of Marriage: Women’s Dividing Path), it describes an attempt not to locate oneself in a medical model of PTSD but to practice “self-assessment by way of verbalization and theorization.” It thereby suggests that a self-narrativization of one’s own experience in a safe place could be a way to recover from PTSD.

    コメンテーター:信田 さよ子(のぶた さよこ)

    被虐待経験や母との関係を語る文章を目にすることは珍しくなくなった。やっと、という思いである。被害という言葉は加害を告発するという意味が含まれているはずなのに、窃盗や交通事故の被害とは異なり、DVや性暴力は被害者がスティグマタイズされてしまう。被害もまたジェンダー化されるために、多くは語られず、なかったかのように被害者は生きなければならない。#MeToo!のムーブメントが静かに広がっているのは、あの華やかなハリウッド女優たちも自分と同じ経験をしていることを知り、国を超えた「仲間」を得ることでカムアウトする勇気をもらう女性が多いからだろう。
    しかし性虐待(近親姦)被害は、その背景やプロセス、構造の複雑さから、連続してはいるものの同じ平面上で語ることは困難だ。「記憶」が問われるからである。トラウマ記憶に関しては研究が進んでいるが、定義される以前に意味不明の症状(著者は摂食障害を発症した)や、奇妙な体感が先駆する。何故なのか、何なのかがわからないままフラッシュバックが起きる。性虐待・トラウマと命名できるまでの混迷の深さ、自己定義してから始まる新たな混乱と怒りは、しばしば当事者がそれを語ることを妨害する。しかし言葉がなければ、新たな語り直しがなければ生きていくことはできない。このような切迫感が本論のいたるところに満ちている。「失われた記憶が蘇る度に、連なりが途絶え、私は自分を作り直さなければならなかった」というくだりは、胸が痛む。
    これだけ多くの言葉が日々ネットやメディアを通して溢れているのに、性虐待被害者がサバイバルするために必要な言葉を与えてくれたのはフェミニズムだけだった。「この当事者研究の目指すところは、フェミニズムの言葉によって自分を作り直した軌跡を辿ること」なのである。これは研究の原点を私たちに突きつける。客観性やエビデンスの持つ価値を否定するものではないが、ひとりの人間が生きていくためにどうしても必要な言語的活動はすべて研究と呼べるのではないか。本論は、既成の心理学や精神医学が取りこぼしてきた(もしくは僭称してきた)被害者像を当事者がフェミニズムの言語を用いて作り直し、しかもそれは仲間とともに行われることを示した。このような当事者研究と、客観性と論理性を旨とする既成の研究とを架橋するのが研究者の役割ではないだろうかとさえ思う。
    もっとも秘されタブー化された性虐待被害者たちが、生き延びるためにほかでもないフェミニズムを必要とした。本論は当事者学としてのフェミニズムという原点を明確に示したものだろう。著者の勇気を称えたい。

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    コメンテーター:高 美哿(こう みか)

    論文概要:

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    論文概要:

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  • 仕事と子育ての両立を選択した女性たちのサバイバル Survival of women who chose to balance work and child-rearing

    2022/06/30

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    著者名:太田恭子

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    論文概要:

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  • 東大インカレサークルで何が起こっているのか ―「東大女子お断り」が守る格差構造- What Matters with the Intercollegiate Circles at the University of Tokyo?: The Reproduction of Gender Structure by the "No Women from the Tokyo University Allowed" Rule

    2022/02/09

    • リサーチ

    著者名:藤田優

    コメンテーター:江原由美子(えはら ゆみこ)

    論文概要:

    東京大学において、「東大女子お断り」のサークルが問題となっている。これは東大女子の加入を禁じ、東大の男子と他大学の女子のみで構成される東大のインターカレッジサークル(以下インカレサークル)のことで、主にテニスやバドミントン、バスケットボールなどのスポーツサークルで多く見られる。  本稿では、 “なぜ東大女子は排除されなければいけないのか” という疑問を出発点とし、「東大女子お断り」を掲げるインカレサークルへのフィールドワークを通じて、インカレサークルの内部で何が起こっているのか明らかにした。調査方法としては、東大インカレサークルまたは学内サークルに所属する男女へのインタビューに加え、その中の1つのインカレテニスサークルに対する参与観察も行った。その中で、東大インカレサークルには男子優位のジェンダー秩序が存在し、「東大女子お断り」という閉鎖構造がそれを維持する二重の差別構造となっていると分かった。  東大インカレサークルにおける二重のジェンダー差別構造は、ジェンダー意識の低さに伴う罪悪感の無さ、偏差値ヒエラルキーに基づく男子の傲慢さと他大女子の低姿勢、インカレサークルに対する東大女子の嫌悪感など様々な要素が絡み合って成立していると推察される。東京大学という、国内で大きな影響力を持つ大学のサークル活動において男子優位の非対称なジェンダー秩序が再生産されていることは非常に大きな問題であると言えよう。  また追記として、本稿が執筆された2016年以降、「東大女子お断り」を掲げるサークルに対する大学側の処置により、「東大女子お断り」を堂々と掲げるサークルはなくなった。しかし裏で差別が続いている可能性もあり、更なる分析が求められるだろう。 This paper problematizes the intercollegiate circles at the University of Tokyo (abbreviation, Todai), supposedly a Japan's top university, which prohibits women of the same school from joining them. They consist of exclusively Tokyo University boys and girls from other universities (mainly women's universities), mostly among sports circles such as tennis, badminton and basketball.  Starting from the question, "Why should women from the University of Tokyo be excluded?", this paper examines what is happening inside intercollegiate circles through fieldwork at intercollegiate circles with "No Todai women allowed "rules. In addition to interviewing with male and female members of the University of Tokyo intercollegiate circles and other on-campus circles, I conducted participant observation at one of the intercollegiate tennis circles. What I found is that those intercollegiate circles have a male-dominated gender order, and that the closed structure of "no Todai women allowed" circles has a double discriminatory structure that maintains this order. This asymmetrical gender order with male dominance has been reproduced in the circle activities of the University of Tokyo, a university with great influence in Japan, which is a very serious problem. As a postscript, since this article was written in 2016, there are no more circles that openly apply "no Todai women allowed" rules due to the university's measures against gender discrimination. However, it is likely that discrimination continues behind the scenes, and further analysis will be required.

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