WAN女性学ジャーナル

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  • 『女のからだ』(1974)とフェミニスト翻訳

    2023/10/19

    • リサーチ

    著者名:古川弘子

    東北学院大学国際学部国際教養学科教授。大学卒業後、出版社で雑誌編集と書籍編集に携わったのち、PhDを取得した(Literary Translation 2011/University of East Anglia, UK)。主にジェンダーの視点による文学翻訳研究を行っている。共編著書にThe Palgrave Handbook of Literary Translation(Palgrave Macmillan 2018)、共著書にTranslating Women(Routledge 2017)、論文に「『からだ・私たち自身』(1988)が唱えたリプロダクティブ・ヘルス/ライツ」(『通訳翻訳研究』2021)などがある。

    『女のからだ』(1974)とフェミニスト翻訳

    論文概要:

    本稿の目的は、1974年発行の『女のからだ―性と愛の真実』(ボストン「女の健康の本」集団著、秋山・桑原・山田訳編)を翻訳学のフェミニスト翻訳の視点から分析・考察することである。フェミニスト翻訳とは、翻訳を通して女性に対する偏見や差別を可視化し、読者の注意を喚起することで社会に異議を唱えようとするもので、1990年代後半から主にカナダで盛んに議論されるようになった。
    『女のからだ』は、1970年に小冊子として発行されたWomen and Their Bodiesと1973年に商業出版されたOur Bodies, Ourselvesの日本語版である。原著は米国の女性グループ「ボストン『女の健康の本』集団」が女性のために編集した、女性のからだについての情報や知見、体験談を集めた本だ。中絶が違法であった時代に、中絶やセクシュアリティについて率直に語った本書は、アングラで出版されたベストセラーであった。今や原著は「女性の健康のバイブル」とも呼ばれ、通算約450万部のロングセラーとなっている。
    本書を日本に紹介した『女のからだ』は、その翻訳自体がフェミニスト的行動であったことは疑いがない。しかしながら、本稿ではより踏み込んで、翻訳学におけるフェミニスト翻訳の視点から考えていく。具体的には、フォン・フロトー(von Flotow 1991)の分類による3つの翻訳方略-1. supplementing(補足すること)、2. prefacing and footnoting(序文や脚注で補足説明をすること)、3.hijacking(乗っ取ること)-に基づいて考察していく。

    Abstract
    This research explores the Japanese book Onna no Karada—Sei to Ai no Shinjitsu (trans. Akiyama, Kuwabara & Yamada 1974; literally, Women’s Bodies: The Truth of Sexuality and Love) from a feminist translation perspective. Feminist translation began to be discussed in the late 1990s, mainly in Canada, and aims to make females visible in translated texts as a way to object to women’s subordinate position in society.
    Onna no Karada—Sei to Ai no Shinjitsu is the Japanese version of Women and Their Bodies (The Boston Women’s Health Book Collective 1970) and Our Bodies, Ourselves (The Boston Women’s Health Book Collective 1973). In the 1970s in the United States, abortion was illegal and the books that dealt with sensible topics such as abortion or sexuality became underground bestsellers. Thus, translating the texts itself was no doubt a feministic action.
    However, this study takes a further step to investigate the Japanese text in detail to see how the text was translated by the three feminist translators. For the text analysis, this paper applies the three feminist translation strategies proposed by von Flotow (1991): 1. Supplementing; 2. prefacing and footnoting; and 3. hijacking.

    コメンテーター:荻野 美穂(おぎの みほ)

    わたしの身体はわたしのもの、恋人や配偶者のものでもなければ、(子どもであれば)大人が自由にして良いものでもないし、ましてや医者や国家がわたしに代わって決めたり指図したりすべきものでもない。これはフェミニズムが一貫してかかげてきたメッセージであり、最近では「わたし」の中身は女だけでなく、未成年者や男性、性的マイノリティ、障害をもつ人々をも指すようになってきた。
     本論文で取り上げられるOur Bodies, Ourselves は、第二波フェミニズムにおけるこの主張の象徴とも言える本であり、長年にわたり本国のアメリカだけでなく、世界の各地で訳され読まれることで、女たちの運動や生き方に多大な影響を与えてきた。
     では、日本ではこの本は誰によってどのように訳されてきたのか。日本語版は、1974年に『女のからだ―性と愛の真実』、1988年に『からだ・私たち自身』として2度出版された。そもそもフェミニズムの本を訳して出版すること自体が「フェミニスト的行動」ではあるが、本論文ではさらに踏み込んで、訳者たちが原著を日本語へ置き換えるにあたってとった多様な「方略」をフェミニスト翻訳という概念を用いて検討している。
     フェミニスト翻訳とは「翻訳において言語による性差別を排除する」ことを目的とするもので、その方法としてsupplementing(補足する)、prefacing and footnoting(序文や脚注による補足説明)、hijacking(乗っ取る)の3つがあげられている。本論文では1974年版を中心に、1988年版にもふれながら、それぞれの訳者たちが採用したさまざまな工夫や言葉の遣い方などについて、この3つの観点から具体的に考察している。
     なかでも興味深かったのは、女ことばの使用に関する部分である。フェミニスト翻訳とは「翻訳によって女性の存在を可視化すること」ではあるが、日本語の場合、原語の女性のことばを女ことばを用いて訳すことは、過度に女らしさを強調するジェンダー規範に迎合する結果となってしまう。したがって、むしろ「言語の中の女らしさを強調するのではなく、不要な女らしさを排除し、ニュートラルに近づけることが大切」だという指摘は、日本語とジェンダー、翻訳とジェンダーの関係を考える上で示唆に富んでいる。

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    論文概要:

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    論文概要:

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    • リサーチ

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    論文概要:

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  • パート労働が私にもたらしたもの・失ったもの - 自分史的アプローチ -

    2020/11/25

    • リサーチ

    著者名:藤田眞理

    コメンテーター:伊藤比呂美(いとう ひろみ)

    論文概要:

    本論は「自分史的アプローチ」の形をとって、再就職以降心を捉えて離さなかったパート労働に対する疑問と違和感に応える当事者研究である。これまで幾度となく語られてきたパート労働がもつ不利な労働条件や不当な差別以外の別の意味や役割について考察し、主にアイデンティティの面からパート労働を当事者の言葉で紡ぎ、自身の経験を再定義する試みである。それはパート労働を「労働」として意識的にポジティブに解釈することであり、パートを含む非正規をエンパワーすることになるという信念からのものでもある。  パート労働の場では学び取ったフェミニズムとジェンダー論の言葉と知から自分の位置を考察し、仕事場の権力配置をも洞察する。パート労働を個人的に解釈することだけでなく、賃金以外の「労働」がもたらすものまでを考察している。  結果、パート「労働」はアイデンティティにつながる気づきを与え、自分自身を変え、夫婦関係を変え、専業主婦であることよりはるかに居心地のいい、サバイバルのスキルであったことを導き、思いがけずフェミニズムが人生を肯定させる思想でもあったという新たな認識をもたらした。 This essay aims at a personal history to approach the problems and difficulties of an experience as a part-time worker which have caught me since reentering the job market. Though scholars have argued much about disadvantages and discrimination against part-time workers, I explored to find alternative significance and roles of being a part-time worker, in my own words in terms of Identity. Thus I tried to redefine my experience positively as a worker: it is an effort to interpret part-time work as a "work" so as to empower women working on the irregular basis including myself. What I leaned from gender studies and feminism helped me to understand power relations in the work place where part-time workers are placed at the bottom. However part-time work has brought me not only wages but also another reward unmeasurable with money. In conclusion part-time work has changed myself and my relationship with the husband, and given me a skill for survival better than being a housewife, with a positive identity. Feminism was an unexpected gift for me to approve my life.

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