京都大学時計台


 7月10日、第26回参議院議員選挙の投票を済ませて、京大人文研アカデミー「東アジアの脱植民地化とジェンダー秩序-女性たちの経験と集合的記憶の再構築」に行く。会場とオンラインで結ぶハイブリッド形式の開催。4人の報告者の方々の長い研究成果の蓄積と、当事者たちに向き合う真摯な姿勢に感銘を受け、久々に充実した時を過ごさせていただいたことに感謝。

 今、読書会を続ける上野千鶴子・蘭信三・平井和子編著『戦争と性暴力の比較史に向けて』(2018年2月、岩波書店)の編者・蘭信三さんから、お誘いを受けての参加。WAN女の本屋・わたしのイチオシに書評を書かせていただいた本の、その先に続くテーマでもある。

 ようやく語り始めた女たちの記憶と、彼女たちのエージェンシー(agency、行為主体性/主体的な意思に基づく自律的な選択)と、それを聴きとる研究者の相互作用から生み出された成果を拝聴させていただく幸せ。脱植民地化/帝国崩壊後の「記憶」と、冷戦終結後の「記憶の再構築」と、さらには現下の世界情勢のもと、新たな未来へ向けて、今こそジェンダーの視点に立つ「記憶の再々構築」が進みつつあるのだと実感する時間でもあった。


 竹沢泰子さん(京都大学)の開会挨拶、蘭信三さん(大和大学)の趣旨説明の後、プログラムが始まる。

 第一報告「満洲からの引揚げと性暴力被害-被害者の名乗り出による集合的記憶の揺らぎ」山本めゆ(立命館大学)。山本さんの論考「過去と対話する下伊那の歴史実践-満蒙開拓平和記念館」を、蘭信三・小倉康嗣・今野日出晴編著『なぜ戦争を継承するのか-ポスト体験時代の歴史実践』(2021年2月、みずき書林)でも拝読した。これも女の本屋・わたしのイチオシ書評に書かせていただいた。

 山本さんは、2017年から黒川開拓団・遺族会(岐阜県)の聞き取り調査を始める。開拓団は「治安維持」を目的に若い未婚女性15名(16~22歳)をソ連兵に差し出し、「接待」を実施。うち4名が現地で死亡。出征兵士の妻は「接待」から免除されたという。戦後、生き延びて帰国した女性のうち2人が、2013年、満蒙開拓平和記念館で自身の経験を語る。しかし彼女たちの戦後経験は、①遺族会での白眼視、②自死した女たちの神聖化だったという。「こちらは生きるために犠牲になって汚れて帰って・・・私は大和撫子ではなかったんだなってふうに思ってね」と語る。

 「男性リーダーたちの機転、冷静な判断によって開拓団を守った」として、「接待」が男性たちの「英雄譚」として語り継がれてきたのだ。しかし「黒川の女性たちの名乗り出と語りは、男性主導かつ毀損された男性性の回復のために再生産されてきた集合的記憶を動揺させるものではなかったか」と山本さんは語る。それは、言うに言えない思いの中で彼女たちが、あえて語り始めた当事者自身のエージェンシー(行為主体性)でもあったのではないかと、私もまた同じ思いで聴く。

 第二報告「日ソ戦後の記憶とジェンダー:サハリンをめぐる残留と抑留」中山大将(釧路公立大学)。中山さんは境界地域サハリン樺太に生きる人々を、「境界変動」「住民移動」「国民再編」「記憶構築」の4領域に図式化し、そこにジェンダーがどう働いたかを問う。1945年8月、ソ連樺太侵攻により、緊急疎開・脱出・密航者の他、要人・軍人「抑留」者は2万人にのぼったという。1946年~49年の樺太引揚げ後、残留者は1500人。その中に、樺太在住の朝鮮人とその妻となった日本人女性が含まれていた。戸籍制度による女性の「婚出」(転籍)意識と朝鮮人差別が、そこに働いていたのではないかと、中山さんは読む。1956年12月、日ソ国交正常化後、シベリア抑留者の引揚げ、サハリン残留日本人集団帰国の後、「未帰還者」は自ら「自己意思残留」を望んだとする厚生省援護局のとらえ方もあったのではないか、と。

 ではなぜサハリン残留女性は「他者化」されたのか→父系的戸籍制度による家族観と、日本社会の朝鮮人差別があったのではないか。②「他者化」が帰国実現の遅延にどう影響を与えたのか→「冷戦前期」では「残留日本人」問題の不可視化があり、「冷戦後期」には「自己意思残留」論が働いたのではないかと、中山さんは考える。その後、引揚者団体は、残留日本人運動より、領土返還運動へと傾注していったことも指摘する。

 第三報告「済州4・3の犠牲者と遺族:存在の規定とジェンダー」伊地知紀子(大阪公立大学)。ヤンヨンヒ監督のドキュメンタリー映画「スープとイデオロギー」が評判だ。ヤンヨンヒさんと済州島4・3事件で日本へ脱出、在日コリアンとして生きた金時鐘さんの対談も、SNSで感慨深く拝読した。

 東シナ海に浮かぶ済州島から、日本の植民地支配下、大阪へ働きにくる人々が大勢いた。戦前、日本に居住する済州島出身者は5万人、済州島人口の5分の1を占めたという。解放後、済州島への帰還者は2万人を超えたが、島での生活苦から日本への密航者も後を絶たなかったという。

 1948年4月3日、南北分断につながる南朝鮮単独選挙への反対、米軍政・警察・右翼への抗議に300人の島民による武装蜂起が決行され、1957年まで3万人の島民が犠牲となる。済州4・3は、韓国歴代政権のもとで半世紀近く正史から消されていたが、1987年、盧泰愚による「6・29民主化宣言」以降、事件の真相が明らかにされてゆく。2000年、「済州4・3事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法」の制定・公布により、「遺族規定」を制定、犠牲者遺族が補償対象になった。詳しいレジュメを読み、冷戦下の悲劇と冷戦終結後の韓国の動きを改めて知ることができた。

 済州島は一夫多妻がまだ残る地域でもあったとか。そのため補償されるべき犠牲者の遺族が法律婚、事実婚、直系であることや、「遺族規定」の定義が時代とともに変わること、父系血統主義による選別が温存されていたことにより、補償対象者が限定されることもあった。とりわけ日本在住の済州人たちは、補償要件の「四親等以内」であるにもかかわらず、自らが「遺族」の対象であることに気づかぬ場合もあったという。

 済州語を駆使しての伊地知さんのインタビューも、20年かかって初めて明らかになる事実があったことにも、聴き取り作業の困難さを思う。国民国家ベースでの記憶が「秩序化」されていくことにより、在日済州人という、「周縁」にさえ位置づけられない「記憶のローカリティ」があることも、また考えさせられた。

 第四報告「女性政治受難者の経験と記憶を読み解く-台湾50年代白色テロルをめぐって」松田京子(南山大学)。松田さんも2007年~2016年まで10年に渡り、年に2回、台湾を訪れて一人の「女性政治受難者」の聴き取りを重ねてきた。 1945年、日本の敗戦・「光復」後、国民党政府による「中国国民」化が強まる。1947年、2・28事件、「反国民党運動」への弾圧が起こる。1949年、中華人民共和国成立後、蒋介石ら(国民党)は台湾(中華民国)へ。国民党政府が「戒厳令」を発布。以後、1987年に「戒厳令」が解除されるまで弾圧は続く。とりわけ1950年代、白色テロにより、知識人層は壊滅的な打撃を受ける。その後、1998年、台湾政府は2・28の「戒厳時期不当叛乱匪諜審判補償条例」を制定する。その中で、「政治受難者」として対象となった女性は222人(3.62%)と少数だった。主に教師や学生たち。「読書会」を開いただけでも逮捕されたという。

 松田さんは「口述歴史」(聴き取り調査)の「ジェンダー観点からの問い直し」を試みる。「政治受難者」とは誰か。そして「受難者家族」(大多数は女性)の声を聴くことが大切と考え、一人の「女性政治受難者」=女性政治犯でもあり、男性政治犯の妻でもあった馮守娥という、1930年生まれ、日本支配下のもと、高等女学校の教育を受け、日本語が堪能だった女性に日本語での聴き取りを進めていく。

 1950年、兄と「読書会」を開催していたことで逮捕され、台北「保密局」へ移送、緑島「新生訓導所」に収監、「台湾省生産教育実験所」に移送、1960年に出獄する。その後も監視と妨害の中で就職難に陥る。その後、結婚した夫も1976年、逮捕され、懲役15年の判決。その間、二人の子どもを育てるため日本語教師となり、家計を支える。戒厳令解除後、2003年、小泉首相靖国神社参拝・台湾人兵士合祀反対訴訟を行う。聴き取りの中で、女性政治犯への性暴力や拷問、死刑執行のことなど、言い淀みながら語る言葉を、松田さんはインタビュアーとして辛い思いで聴いたという。

 松田さんは、台湾における「日本語」での語りの意味を考える。日本の植民地下、日本語による高女の修学経験があったという言語面と、日本語で話す選択は「日本社会に対する発信力が意識されている」ともいえる。さらに「女性政治犯」としての語りのみを聴くのではなく、「受難者家族」としての経済的苦境も含めた、女性が置かれた「日常」こそが重要な意味をもつという松田さんの分析に、ジェンダーの視点から大事な要素でもあると、同じ思いで、じっくりと聴いた。

 休憩の後、長志珠絵さん(神戸大学)と蘭信三さん(大和大学)から、4人の報告者へのコメントとリプライ+総合討論の後、会場とチャットからの質問と応答が続き、アッという間に4時間の濃密な時間が流れていった。

 改めて思う。「市民的価値観」とは異なる、サバイバーたちのジェンダーの視点からの「記憶の再構築」の大切さと、その中から生まれる当事者自身のエージェンシー(行為主体性)と、そして何よりもオーラルヒストリーにおける「聴く者」と「聴かれる者」との間に生まれる相互作用の中から、歴史の「記憶」に止まらず、いかなるディシプリンにおいても、「記憶の再構築」の方法論が、新たに生まれてくるのではないかと、かすかな希望が見える思いがするひとときだった。

 過去、東アジアで繰り返されてきた戦争と弾圧と、それに対する人々の抵抗と、冷戦終結後の、ひとときの平和の中での「記憶の再構築」。しかしまた再び繰り返される不穏な世界の動きの中で、今こそジェンダーの視点に立つ「記憶の再々構築」が求められているのではないかと、会場からの発言もあった。

 参議院選挙後、日本はどんな方向に向かおうとしているのか。その行く末をしっかりと見極めつつ、そこには必ずやジェンダーの視点に立つ方法論を失ってはならないと痛感して、そのような時期、大事な企画を組んでいただいたことに心から感謝をして、夕刻、帰途についた。