会社員として働いていた時、産育休を取った。その最中に上司とメールのやり取りをしていて文末にこうあった。
「社会復帰、お待ちしていますね」。


ありがとうございます!と思った後に、違和感が残った。

ただの定型フレーズなのは分かっている。でも私は今、社会に属していないの?確かに「会社」に通っていないけど、「社会」から外れているのか?

私はむしろ、休業中に新しい「社会」を発見していた。簡単に言えば「平日昼間」や「子ども」の世界。平日昼間のスーパーや公園、病院、子どもが生まれるまで存在を意識することすらなかった児童館。

そこにいる人たちが作っている「社会」を私は知らなかった。私は今まで知らずに「社会人」をやっていたのだなあと思いながら、街のあちこちを見回していた。

一方で、「社会に属していない」焦りも確かにあった。お金を稼ぐことから遠ざけられる。朝起きて行き先は特になく、やることが家の中の用事以外にない…気楽さのあとに急に来る焦り。その焦りは確かに「社会復帰したい!」と叫ばせる。もう戻れないのではないか、自分の意思ではない何か(例えば「親たるもの」「母たるもの」と迫って来る何か)に無理やり人生を変えられるのではないかという恐れが、さらに焦りに拍車をかける。

子どもと過ごして知った平日昼間の社会も、働き稼ぐ社会も、どちらも必要な社会のはずなのに、この線がどうしてこんなにくっきりしているのか。分断の深刻さに、ぞっとしなければいけないのはなぜなのか。

これを思い出したのは、最近『分断社会を終わらせる』という本を読んだからだ。政策面、特に財政面から見て、どのように日本社会が地域・世代・働く人/働けない人などの線引きにより「分断」されてきたかを説明し、その処方箋を説いている。

日本で政策として採用されたのは景気対策のための減税と雇用の確保(公共投資)で、「かわりに社会保障と教育は個人と市場にゆだねる」(p.21)という部分を読んで、私はあの「分断」を思い出した。あの線があんなにくっきりしていたのは、ここで働く人/働けない人を分け、子ども関連のこと(社会保障と教育)が「公共のこと」から追いやられていたからではないか。

自分が覚えた違和感をこうして「それにはこうした社会構造が背景にある」と知ることは、人を助けるだろうか。何があると分かったところで、目の前にある分断は変わらない、負担は減らない、とは思う。

でも私はやはり知りたい。納得した瞬間の「これだ!」というすっきり感は、それ自体が楽しい。私個人のせいではないこと、何かを変えれば解決するかもしれないことを知ると、私の心は少し軽くなる。軽くなった分、もう少し進めるはずだと思う。

(参考文献) 井手英策ほか『分断社会を終わらせる』(筑摩選書)

■ 小澤さち子 ■