小5の孫娘の本棚を眺めていたら、「読んで!」と、本から声が聞こえたような気がして、ミヒャエル・エンデの名作『モモ』(岩波少年文庫、2005年)を手にとった。以前に読んだことがあったと思うのに、もう一度読み返してみたら、もう止まらない。

 なんという示唆と風刺に富む本なのだろう。

 「小さなモモにできたこと、それはあいての話を聞くことでした。だれにだってできるじゃないかって。それはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんで、モモは、ほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです」。

 円形劇場に住むモモを訪ねてくる道路掃除夫のペッポも口達者のジジも、町の人々もモモに話を聞いてもらうと、みんな幸福な気持ちになるのだった。

 ところが、そんなゆったりとした町の人々の、「生きる」ということそのものの時間を、どこからかやってきた「灰色の男たち」が、「よい暮らし」のため、と人々を信じこませ、せかせかした効率主義へと追い詰めてゆく。みんなからぬすんだ時間を「時間貯蓄銀行」に貯めこみ、彼ら自身、生き延びていこうと企むのだ。「ああ、時間がない、ひまがない」とあくせくする大人たちを見て、子どもたちだけは、なんかおかしいと感じている。

 そんななかでモモは、カメのカシオペイアに導かれて、誰も行ったことがない「時間の花の国」へとたどり着く。待っていたのはマイスター・ゼクンドゥス(秒)・ミヌティウス(分)・ホラ(時間)という名の「時間」を司るマイスターだった。

 マイスター・ホラはモモに言う。「もし人間が死とはなにかを知ったら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだよ」と。

 やがて、かの国から「時間の花」をもらって、モモは住み慣れた円形劇場へ戻ってくる。「灰色の男たち」は、その花を奪いとろうと必死にモモを追いかけるが、モモはカシオペイアに助けられ、追手からすり抜けてゆく。ついに「時間どろぼう」の男たちは一人、またひとりと消え失せていく。そして再び、あらゆるものがまた、ゆっくりと動き出し、心豊かな世界がよみがえってくるのだ。ああ、「めでたし、めでたし」となるのだろうが、果たして、ほんとにそうなのかな?

 読み方はいろいろあると思う。ミヒャエル・エンデが『モモ』を書いたのが1973年、時代は経済成長の道をまっしぐら、20世紀から21世紀へと、人々が目まぐるしく、追い立てられるように邁進していったことへの「風刺」として読むこともできる。でもなぜか私には、この「時間」が、「生」と「死」の間をゆっくりと行きつ戻りつしていくさまを、それも自然に、実に自由に描いているような気がして、読んでいて一体、これはなぜだろうと不思議に思っていた。


 確かにコロナ禍で私たちの暮らしが、以前とは全く変わっていくことは確実だ。「より速く、強く」から「楽しく、しなやか」に、そして「新しい持続可能なグローバル化を実現するために社会的な時間の流れ方を変えなければならない」と説く、社会学者の吉見俊哉・東大教授へのインタビュー記事(2021年1月13日付毎日新聞、聞き手・鈴木英生)も、至極納得のいくものだった。まさにコロナ後の世界は否応なく、そうならざるをえなくなるだろう。そうでなければ人類はこれから生き延びてはいけないと思うから。だけど、「生きている時間、その「生」の先にあるものは一体、なに?」と、ふと考えてしまうのだ。

 もう一冊、有吉佐和子著『紀ノ川』(新潮文庫、昭和39年)を、ラジオ第二放送で毎週土曜日夜の「朗読の時間」に聴いて、あまりの名文に聴き惚れてしまい、眠れなくなってしまうほどだった。早速、買い求めて一気に読み終えた。紀州の国を流れる紀ノ川を軸に、明治・大正・昭和を生きた真谷家・女三代の系譜、花と文緒と華子たちが泰然と男に伍して、たくましく生きていく物語を読んで、また堪能してしまった。有吉佐和子28歳の時の作品、亡くなったのが53歳というから、もったいない。もう少し生きてくれたら、もっと名作を読むことができたのに、と思う。

 花の娘・文緒に叔父の浩策が言うセリフ。「お前(ま)はんのお母さんは、云うてみれば紀ノ川や。悠々と流れよって、見かけは静かで優しゅうて、色も青うて美しい。やけど、水流に添う弱い川は全部自分に包含する気(きい)や。そのかわり見込みのある強い川には、全体で流れこむ気迫がある」。花の、しなやかな流れに逆らう独立自尊の娘・文緒と、兄・敬策と花に抗する浩策の生き方もまた、いきいきと描かれている。そんな人々を巻き込むように、紀ノ川は、いつもゆったりと流れていく。

 私が4歳の頃、毎週、大阪南部の淡輪から和歌山の水軒口まで、南海電車に乗り、母につれられ、ピアノのお稽古に通っていた。途中、大きな「紀ノ川」を渡る電車から、川の流れを眺めるのが大好きだった。ピアニストの井口基成の直弟子という、こわい、こわい女の先生だったけど、母に叱られながらも、毎日、お稽古をしていた。ジェーン台風が和歌山を襲った日も休まずに出かけて、帰りの電車が止まってしまったことも覚えている。その頃の母はまだ20代半ば。若かったから台風をものともせず、私をレッスンにつれていったのかもしれない。

 その母が6月7日に亡くなった。97歳と9カ月だった。3カ月ほど病院に入院。だんだんと食欲が落ちてきて、毎日欠かさず、好きなおかずを4、5種類、お品書きと曾孫の絵と手紙を添えてバスに乗って持参し、コロナで面会できない中、看護師さんに託して、日々、容態を伺っていたのだけど。玄米と豆乳で発酵させた手作りのヨーグルトに果物や蜂蜜をかけたものだけは少し食べてくれていたようだ。心臓にペースメーカーを装着していたが、徐々に血圧が低下して、しばらく前にドクターから引導を渡されていたのだが。

 病院での最後のリモート面会で、曾孫がピアノの発表会で弾くモーツアルト「ソナタ」第1楽章を動画に録音して少し聴いてもらった。ちょっとしんどそうだったけど、聴き終えると「この曲、あんたも弾いたね」といったのが最期になった。その夜、病院からの急な電話で駆けつけた時は、もう静かに眠っていた。

 コロナ禍でずっと会えなかった曾孫は大泣きしたけど、なぜか私は涙も出ない。ドクターや看護師の反応に覚悟ができていたから。そして1週間たった。お葬式は、57歳で亡くなった私の父の命日と重なった。叔母と娘と孫と同じマンションでお世話になっている友人の5人で、無事にお見送りを終え、役所の手続きも済ませて、ようやく落ち着いた。

 「いやなものはいや」という気性の母は、自分を貫いて97年の「時」を生きてきたのだろうか。私は母とは違って意気地なしだけど、私もまた私なりの「時間」を、あともう少しだけ生きていこうと思っている。

 「生」と「死」は、ともにゆっくりとつながって、大きな川の流れのように、たゆたいながら海へ流れていくのではないかと、なんだかやっと、このところの心の問いに、かすかに答えを見つけられたような気が、今はしている。