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  • 私にとっての「女性学」という場 ――水田宗子の女性学と草創期の議論を再考して――

    2019/09/09

    • カルチャー

    著者名:石島亜由美

    1980年生まれ。 女性学修士・比較文化博士(城西国際大学大学院人文科学研究科博士前期・後期課程)。 城西国際大学において8年間研究員を務めたあと、現在は、「はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師」資格取得のため、教育訓練給付金制度を利用して都内の医療専門学校に通学している。また、大学院時代に出会った仲間たちと「サバイバルとしての女性学研究会」(サバ女)を主宰。 研究はこれまで近代日本の「妾」研究を行ってきた。論文:「『夫』『妻』『妾』近代的主体とジェンダー文化の構築」(『女性・戦争・人権』14号、2016年)、「近代日本における『妾』に関する新聞記事のジェンダー分析」(『女性学』25号、2018年)

    コメンテーター:上野千鶴子(うえの ちづこ)

    私にとっての「女性学」という場 ――水田宗子の女性学と草創期の議論を再考して――

    本論は、1970年代から1980年代初頭にかけて日本で発表された女性学第一世代の女性学に関する論稿を考察し、各研究者が初期の段階において何を問題化したのかについて論点整理を行い、草創期の女性学像を明らかにするものである。
    加えて、日本では稀有だった分離型女性学を創設した水田宗子の思想を考察し、その水田が設置した城西国際大学大学院を研究の場としてきた私の立場から、私自身にとって女性学の場の意味は何であったのかを振り返るものである。
    考察の結果、女性学とは、性差の権力関係を問題とし、その事態の解消を目指して、既存の学問体系に対峙する女性学的知性を構築する営みであったことが分かり、各研究者の女性学にコミットする「当事者性」を捉えることができた。また、私自身の立場から女性学とは、性差の権力構造の中で言語化できなかった個別の経験を言語化することによって、その問題構造を問い、一人ひとりがそこから解放されていくプロセスであったことを振り返った。すなわち女性学は、実存と切り離せない、各個人のフェミニズム意識の実践の場であることを結論づけた。


    My position in the women's studies that Mizuta Noriko created: Reconsidering the women's studies in its founding period in Japan

    This paper examines the discourses of the founders of women's studies from the 1970s through the early 1980s in Japan, so as to clarify the point of argument of each scholar and how respective idea of women's studies was formed, with a special focus on Mizuta Noriko's works.

    Mizuta was only one in Japan who founded an independent course of women's studies, namely, the department of women's studies and its graduate school at Josai International University. Based on my personal experience as one of her students, I try to accommodate what it meant to me to belong to this particular academic community, to be called a separatist strategy.

    By my recollection of my personal experience, I argue the following: women's studies is the product from the struggle of construction of women's knowledge; it is determined to confront the system of established academic disciplines, with the goal of eliminating gender discrimination, by questioning gender from the perspective of power relations. In this respect, personal commitment is important for individual scholars. Women's studies meant a process of self- liberation for me through which I could express my personal experiences that could not be done in the gendered structure. In conclusion, women's studies at Josai was a site of practice of my feminist consciousness, which is inseparable from individual existence.


    1、 はじめに
    1970年代、アメリカではWomen’s Studiesとして、日本では女性学という名で展開されたその学問は、成立から半世紀が経とうとしている。昨今、日本の女性学関連領域では、第一世代の取組みについて、その継承を目的として後続の世代が批評する動きが顕著であるが¹⁾、本稿は、城西国際大学大学院の女性学を研究の場としてきた私の立場から、そこで関係を築いた仲間との議論を通して、女性学の場の意味を検討することを目的としてまとめたものである²⁾。
    アメリカではその成立当初、既存の学問領域を学際的に横断し女性学として独自の領域を成立させる女性学プログラムが勢いをもったと言われている。一方、日本における女性学は、文学、歴史学、社会学など既存の学問領域の内部に根付き、制度の歩みとしては、女性学研究の補助機関として大学内に関連の研究所やセンターが設置されるという展開が主たる流れとなった³⁾。このような女性学のあり方について、上野千鶴子は前者を「分離型女性学」、後者を「統合型女性学」という言葉を用いて説明を行っている⁴⁾。本論ではこの上野の「分離型」「統合型」の分類にもとづき、日本での女性学研究展開の状況を把握し、女性学についての議論を行う。
     こうした中にあって、城西国際大学大学院は日本で最初の「女性学」専攻を設置した「分離型」女性学の高等教育機関として知られている。1996年に城西国際大学大学院人文科学研究科女性学専攻(修士課程)、1998年に博士後期課程が開設され、そこに比較文化専攻・比較ジェンダー論分野が設置された。その草創期から女性学講座を開講する南カリフォルニア大学で教鞭をとっていた水田宗子が日本に帰国し、城西国際大学に一連のプログラムを展開していった歴史的経緯がある。
     分離型女性学を基盤とした私たちは、統合型女性学が主流を占める中で、「専攻が女性学」であるという特異な立場でそれぞれの研究テーマを深めてきた。研究会や学会に出れば女性学関係のそれであっても、「ディシプリンは何か?」と聞かれる中にあって「女性学です」と答え続けてきたが――「文学です」「社会学です」と答えれば話は収まるところを、「女性学です」と告げると話はややこしくなり、個別のテーマまで説明しなければ質問の相手は満足してくれないという始末――、この立場は大変ユニークであり、かつ今後のポジショナリティとなることを期待できるものでもあった。なぜならば、私たちが女性学の指導を受けた第一世代の研究者たちは、個々のディシプリンを確立しており、その上に「女性学」を研究のテーマとして選択できたことに対して、私たちのそれは、「女性学」それ自体が方法論となり得ることを期待し、依って立つ「研究の場」となっていたからである。これが第一世代の研究者と私たちとの決定的な違いである。しかしながら同時に、統合型女性学が学会のマジョリティを形成する状況下において、研究発表のためなどで対外的に議論の土俵に上がらなければならないとき、論理の構築に際してその不安に晒されることもあった。
    このような二面性と対峙しながら「専攻が女性学」であるという立場から研究を続けてきたが、以下の問題が勃発したことによって、私たちの研究の場が瓦解するという事態に直面することになった。研究者でもあり学校法人城西大学の理事長でもあった水田宗子が、理事会で提出された緊急動議によって理事長職を解かれたことを発端として、水田の開講ゼミの停止、研究室の封鎖という事態を迎え、その影響は水田が築いた女性学にまで及んだのである⁵⁾。この事情についてここで紙幅を割くことはできないが、水田宗子の城西女性学に対する貢献は大きく、その問題の影響は城西女性学を基盤としてきた私たちにも波及し、女性学実践の場の喪失という結果で深刻な打撃を受けることになった。
    こうした城西国際大学における分離型女性学の「場」の喪失という私の個人的な経験から、本稿の問題関心は立ち上がっている。私が「女性学」の拠点としようとしたその場が、どのような必要性から生まれ、歴史的にどのような経過をたどり構築されたものであったのか。女性学草創期の議論を踏まえながら、その意味などについて以下に見ていくことにする。

    2、女性学議論の注目期――1970年代後半から80年代初頭――
     日本における女性学の草創期、その誕生をいつとみなすのかについては、女性学が制度化された女性学関連の学会の設立や、高等教育機関での女性学講義開講をもってその期とみなすのか、ウーマン・リブや地方女性史研究のグループ活動を女性学黎明期とするのかなど、様々な見解が示されるだろう。
    制度化の観点からいえば、1970年代後半、学会の発足が相次いだ。1977年に国際女性学会、日本女性学研究会、女性史総合研究会が発足、1978年には、女性学研究会、1979年に日本女性学会が設立された。1980年には、国立婦人教育会館(現在は国立女性教育会館)において女性学連続講座が開講し1995年まで続くことになった⁶⁾。その後、日本の女性学研究は、女性学単体の学部設置の方向には動かず統合型女性学路線を歩み、1990年代以降、女性学研究の補助機関として各大学に女性学研究所、ジェンダー研究センター等の研究所・センターの設置が相次ぐという潮流に至った⁷⁾。
    各学会設立と同時期となる1970年代後半、日本の高等教育機関では、各大学、教員の個人的な取組みで「女性学教育」が行われていた。1977年に創刊された雑誌『フェミニスト』(創刊号)では、日本の女性学に先立って、南カリフォルニア大学における女性学の取組みとして水田宗子の講義が紹介され、水田の女性学に関する実践とその思想が論じられている。そして翌年に出版された『フェミニスト』(5号)では、女性学に関する記事が特集され(「特集」女性学のあけぼの)、日本の高等教育機関における各研究者の取組み――たとえば慶應大学における白井厚、東京女子大学における佐藤宏子、京都精華短期大学における藤枝澪子、千葉大学と東京大学における米田佐代子、和光大学における井上輝子の取組みなど――が取り上げられた。さらに『フェミニスト』(8号)では、1978年に国立婦人教育会館で開催された国際女性学会東京会議の様子が約20ページに渡って紹介されている。8号で取り上げられたこの会議は日本における女性学の端緒として注目され、この会議を機として日本女性学会が設立されるなど「女性学の研究と機会とが、わが国でも急速に広まっていった」(井上・神田1987:75)ものとして理解されている。
    『フェミニスト』は、『青鞜』の精神を受け継いだ現代のフェミニズム文芸批評誌として、1977年の創刊から1980年までに17号が刊行された雑誌であり、渥美育子、水田宗子、小林富久子、村川英らが刊行に携わっていた。アメリカを拠点とした日本人フェミニストが編集を担っていたため、アメリカのフェミニズム事情が頻繁に紹介されているのが特徴で、創刊号はオノ・ヨーコが表紙を飾り、オノ・ヨーコと渥美育子との対談が収録されるなど見どころのある記事が盛り込まれている。1970年代後半に開始された女性学議論の展開を確認することのできるメディアとして、『フェミニスト』の果した役割は大きい。
    さて、日本では1970年代後半の制度化、高等教育の展開、1978年の国際女性学会東京会議開催などによって、女性学がいかにあるべきかについての議論――第一世代の女性学像――が散見されるようになった。それらについて現在まとまった出版物から確認できるものとして、私見の限り以下のようなテキストを示すことができる。

    (1)『フェミニスト』(創刊号、1977年)
    (5号・8号、1978 年)
    (2)『女性学入門:女性研究の新しい夜明け』
    (冨士谷あつ子編、サイマル出版会、1979年)
    (3)『女性学ことはじめ』
    (岩男寿美子・原ひろ子編、講談社現代新書、1979年)
    (4)『女性学とその周辺』(井上輝子、勁草書房、1980年)
    (5)『女性学をつくる』(女性学研究会編、勁草書房、1981年)
    (6)『思想の科学』特集:女性学入門(5号、1981年)

     1978年の国際女性学会東京会議の翌年、女性学についてまとまった書籍を刊行したのは冨士谷あつ子である。冨士谷の編集によって、ここに水田宗子、白井厚らの論稿が収録された。また同年、「全員就職者の主婦」「子育てと研究者としての生活を、時には躓きながらも両立させてきた者」(岩男・原1979:3)の立場から岩男寿美子と原ひろ子の編集によって新書が刊行された。この二人以外に、瀬川清子の論稿、広中和歌子と二人の対談が掲載されている。
     1980年代に入ると井上輝子が単著『女性学とその周辺』を刊行し、その翌年、井上の所属する女性学研究会により、同会が行ったシンポジウムなどの研究成果として『女性学をつくる』が出版された⁸⁾。井上を初め、目黒依子、田中和子、天野正子、有賀夏紀、舘かおる、神田道子らの議論が収録されている。因みに井上輝子は、上記単行本の出版前の1974年に、賀谷恵美子との共同執筆で「アメリカ諸大学の女性学講座」(『婦人問題懇話会会報』No.20)を執筆していた。ここでは、アメリカ中西部にあるウィスコンシン大学や、南カリフォルニア大学を含むカリフォルニアにおける複数の大学で行われていた女性学講座のカリキュラムが調査され、その状況が報告されている。またアメリカの「Women’s Studies」を「女性学」という訳語で紹介し、日本における女性学の「体系化」「豊富化」への期待を示しており、この論文は、日本における女性学議論の先駆けとして位置づけられるものである。
    さらに1981年、雑誌『思想の科学』が「女性学入門」を特集する。ここには駒尺喜美、水田宗子らの論稿が収録された。
     上記のテキストに名を連ねているのは、今日では女性学第一世代として知られる研究者たちである。これらのテキストのうち後続の女性学研究者によって注目され、女性学研究の端緒としてよく知られるのは、(4)や(5)の女性学研究会の井上輝子らの議論である⁹⁾が、城西女性学の観点からみれば、(1)、(2)、(6)のテキストに収録された水田宗子の女性学に関する発言に目が止まり、その議論が少なくないことが分かる。
     したがって本稿ではまず、私たちが拠点とした城西女性学の成立の背景を踏まえるために、制度化の時期とほぼ重なる1970年代後半から1980年代初頭にかけて発表された上記テキストを参考にし、水田宗子の議論に注目しながら、各研究者の女性学に関する議論がどのように形成されていたのか考察することにする。論点については以下の点に焦点をあて、初期の段階において何を問題化していたのかという点、女性学成立期における各研究者の目指したことは何だったのかを整理し、草創期の女性学像を明らかにする。

    ① 女性学とは何か
    ② 女性学の担い手
    ③ 方法論
    ④ 運動と研究の関わり
    ⑤ 女性学発展の条件

    そしてその考察のもと、女性学を実践することを志した私自身の問題意識が何であったのかを振り返ってみたい。私にとって「女性学という場」はどのような意味をもったのか、女性学に期待したことを含めて、自身の主体形成についてあらためて整理することにする。

    3、 女性学とは何か
    女性学の理念・定義に関するものとして私たちにとってあまりにも有名なものが、井上輝子による「女性を対象とした、女性による、女性のための学問」(女性学研究会編1981:56)という定義である。井上は「女性に対する学問的無視ないし無関心に抗して、いろいろの分野で女性を研究対象としてとりあげること、これが女性学というものが生まれざるをえない重要な要素」(女性学研究会編1981:57)として、社会のマイノリティに位置づけられた女性の立場からの女性学構築という論点を打ち出した。女性学研究会によって1980年6月に開催された「女性学とは何か」というシンポジウムでこの井上のとった立場に対し、続いて同団体によって同年11月に開催されたシンポジウムにおいて、以下のように他の研究者も同様の立場をとることを示している。
    たとえば天野正子は、「女性が抑圧されているという、そういう基本的な視点」(女性学研究会編1981:99)に立つことを前提とし、「男性の論理に対する女性の論理の確立を目指す学問」(女性学研究会編1981:100)が女性学であると定義している。波田あい子は、「学と名のることによって学問の男性中心主義あるいはセクシズムを批判し、つねに異議申し立てをしていくという姿勢を明らかにする」(女性学研究会編1981:97)という立場にたち、神田道子は「女性学というときには、婦人問題解決という視点を明確に持つことが基礎条件」(女性学研究会編1981:139)であると提示した。
    一方で、井上たちよりも一回り上の世代となる岩男寿美子と原ひろ子の主張は、井上らのものとは異なるものである。原は井上の主張に対し、「私は井上さんの立場と違う立場をとっています」(女性学研究会編1981:69)と自分の立場を明らかにし、女性学が女性を対象とすることについて次のように異を唱えた。

    女性を対象にするというよりは、人間を研究する時に、男性と女性というものの存在を視点の中にとりいれる姿勢を徹底させることだと思っています。従来、「人間」というとき、男性だけが対象になることが多かったので、女性をその対象の中に意識的に繰込んでいくのが大切であると思うのです。(女性学研究会編1981:69)

    女性のための学問というのは、それ自体に反対するわけではないのですが、なにも女性のためだけでなくてもいいと思っています。(女性学研究会編1981:70)

    そして岩男も、女性学がとる立場について『女性学ことはじめ』で以下のように論じ、人間学として男女両性の存在に目を配ることの必要性を説いた。

    女性学は伝統的なテーマやそれに対する取り組み方に、よりバランスのとれた視点を持ち込もうとする。その意味から、女性学はひとり女性のためのみならず、全人類に貢献するものであるといえよう。(岩男・原1979:34、傍点筆者)

    本来学問は、すべて人間学でなければならない。人間学であるためには、当然のこととして人間を構成する男女両性を扱うものでなければならない。(岩男・原1979:37-38)

    井上たちの議論は、女性が男性と異なる立場に置かれたこと、その位置づけが女性にとって不利益をもたらすものであるという点を認識することから始まっていたが、岩男、原には、そのような男女格差の問題はあまり意識化されていない。この二人の主張は、「バランス」という感覚などから、男性領域へ女性の参画を意図するようなリベラル・フェミニズムの観点に立脚したものだったと考えられる。
     これらの研究者の動きに対し、女性学を近代社会における人間疎外の問題へと視野を広げて論じようとしたのが、冨士谷あつ子と水田宗子である。
    冨士谷は、「男性偏重の構築を重ねてきた文化がいま危機に瀕していることを指摘しておきたい。競争原理によって貫かれ、殺戮と自然破壊を繰り返した男性主導の社会は、いま一触即発の緊張の下に、からくも諸国間の共存を許しているありさまである。また人間性疎外につながる過度の生産活動は、本人および次代の生存状況をも危うくしており、いずれも早急な事態の改善をまつばかりである。有史以来、不自然な男性支配の継続した不幸をくつがえさねばなるまい」(冨士谷1979a:5)という問題意識を前提とし、女性学について「女性学は、人間としての女性の自立を支えるものであるが、産業構造の変化に伴う女性の経済的自立の諸条件をさぐり、展望を語り、加えて社会一般の高学歴化、高齢化にあわせての生涯教育と福祉の進展に力をかし、何よりも法治国家として両性の平等な社会参加の保証を促す根拠を示すもの」(冨士谷1979a:6)と位置づけた。
    また当時、南カリフォルニア大学で教鞭をとっていた水田宗子は、アメリカにおける多民族、多人種の文化構造を身をもって経験する立場にあって、60年代にアメリカに誕生した黒人学、老年学、女性学などの成立について、次のようにまとめている。

    機械文明、特に独占資本主義に於ける人間疎外が複雑な構造を持っている事、そして自己が個人的に自己の問題を解決する事が不可能である事への認識がある。新しい学問分野の根底には、差別問題を広く歴史・社会現象として捉える視点と、疎外され、差別された性、人種、階級が、自ら問題を解決し、自己を解放してゆく手段としての学問という視点が存在する。(水田1981:9)

     こうした視点を前提とする水田は、女性学について「女性に関する研究であるが、単に女性の実態調査にとどまるものではない。女性が歴史的に、そして組織的に差別されてきたという性差別の認識の上にたち、女性がみずからの手で差別をなくしてゆく手段としての学問、教育である。同時に女性による社会改良・文化革命を目指すもの」(水田1979年:25 傍点筆者)と定義した。
     日本のフェミニズムでは敬遠されてきたように思えるが、近代が破壊した環境、女性の主体性を回復することを目指して、近代文化を相対化し、産む身体や母性などいわゆる「女性原理」なるものを再考するフェミニズム議論――エコロジカル・フェミニズムや一部のフレンチ・フェミニズム――がある。女性学草創期において冨士谷、水田はこうした論点と重なるところで、女性学の展望を捉えていた。のちに水田は1996年に城西国際大学大学院に「女性学」を開設し、その論理をプログラムに組み込んでいくが、「文化それ自体がジェンダー」「主体の構造が社会の構造に反映する」――性差という規範は確かに社会的・文化的に構築されたものであるが、その規範は強烈であり、近代社会の前提をすべて構築してしまっている。近代個人はこの構造から逃れられるようで逃れられない問題を抱えているという前提における発言――といった人間主体と文化の相関関係を問う視点をもつことを常に指導方針としていた。水田が相手にしたのは「女性」という個別具体的な事象というよりは、文化との関わりの中で立ち上がる相対的な概念であり、変更不可能のように刷り込まれた規範をいかに脱構築し得るかという社会改良の意図をもった運動的試みとしての女性学であった。
     駒尺喜美も、男性文化、男性の学問に対するカウンターカルチャーとしての女性学を主張する。

    男性による男性のための学問であったからこそ、女性学が呼び出されたのである。根深い性差別によって偏向に偏向を重ねてきた学問が、やっと客観性をとりもどそうとしているのである。それは根深い民族差別にやっと気づいた文化人類学が、文明諸国を対象にしないのと同じことである。(駒尺1981:6)

     ちなみに、渥美育子、駒尺喜美、藤枝澪子、冨士谷あつ子、白井堯子、水田宗子¹⁰⁾らによって1979年に設立された日本女性学会における女性学の定義は、「女性学とは、人間としての女性尊重の立場から、学際的に女性およびその関連の諸問題を研究する学問であり、女性の視点(立場)をもって既成の学問を洗いなおすものである」(日本女性学会設立趣意書)と示されている。
     井上をはじめとする女性学研究会のメンバーや、冨士谷、水田、駒尺らの議論において、女性を差異化する男性優位の学問のあり方に異を唱えたこと、またその改革を目指すものであるという意識があったことがうかがえる。そして女性学は「女性の学問」(井上)、「女性に関する研究」(水田)というように、「女性」を研究テーマとする学問であることが、女性学草創期において提示されたのであった。

    4、 女性学の担い手
     「女性に関する研究」というとき、その担い手に男性を含むべきかどうかという問題について、各研究者の主張はおおよそ以下の4つであったことを示すことができる¹¹⁾。

    (1) 女性であることが前提(ただし女性に限る立場ではない)
    (2) 男性も女性学の当事者となり得る
    (3) 当面は女性がやっていくべきという条件付き
    (4) 女性だけに限ることに反対

     「女性を対象とした、女性による、女性のための学問」という定義において、女性学の担い手を「女性」であることを掲げたのは、井上輝子である。ただしそれは、「女性に限る」「男性は担い手ではない」という男性排除の限定した発想ではなく、「女性がまずやるべき」というものであり、そこには当事者でなければ分からない問題状況があり、性差別に対する実感の深さが異なるという理解に基づいている。また、性差別は人間の内面の問題に関わっており、女性が自分で自分を抑圧する状況に追い込んでいる側面があることを指摘し、女性自身の内的な欲求から始めることが望ましいとしている。言語感覚では捉えにくい、女性の身体性の問題を組み込むことも、次のように視野に入れていた。

    女性がやることによって、男性にはできない何かプラスがあるとすれば、それは学問的な方法の洗練度という尺度では計れない、もう少し別のもの。生の実感とでもいいますか、妊娠、出産、その他さまざまな段階における性差別を受けているがゆえに感じざるをえない、ないしは表現せざるをえない、何か。それを学問の中に反映させていくということでしか、女性が女性のことを研究する意義は表現できないのではないかと思うわけです。(女性学研究会編1981:83)

     次に、男性でも女性学を担うことを期待できると指摘したのは、田中和子である。田中は、男性が女性学をやるのであれば、「まず自己の男意識を掘り下げてみる必要がある。その必要性を自覚し、かつそれを辞さないという人なら、男性でも女性学への出発ができると思います」(女性学研究会編1981:176)と示していた。
    また水田宗子も、男性も女性学の当事者となり得ることを示唆していた。女性学というのは、「女性を研究する事によって女性というカテゴリーを超えるものであるし、女性という枠組みを超えるために女性を研究するもの」(水田1981:14)であると理解し、この文化の住民である男性が、女性解放思想に到達することの意義を問う。

    社会構造の一端としては差別者でありながら、家庭に於て、個人的関係に於て、男性は自らが差別する者の不幸に悩まされてきた。(水田1981:11)

    近代に於ける人道主義の思想は、たとえその発生期には男性の人間主張ではあったとしても、遅かれ早かれ、女性の解放思想に到りつくべきものであったと言える。(水田1981:11)

     水田にとって「女性を研究する」ということは、山がそこにあるから登るという試みではない。目の前にある「山」をいかに越え、いかに解体し得るのかという問いを生産し続ける、既存の秩序への挑戦である。現在では、女性学において女性主体の複層性が理解され、ヘテロセクシズム、一夫一婦主義や家族制度などのジェンダー規範から周縁化された性的マイノリティや「妾」などのカテゴリーが議論されて、「女性」という主体を十把一絡げで論じないという意識が定着したと考えられるが、当時において、すでに「女性」というカテゴリーを自明視しないことが示されていたことは注目に値する。
    さらに担い手の意識について水田のそれには甘えがない。

    女性学を受け持つ教授は、自己認識、自己解放と、研究が一体になるという学問、教育の理想を実現しているといっても過言ではない。(水田1977:51)

     上記は、南カリフォルニア大学で女性学を担当していた際に書かれたものであるが、思想と運動を一致させようとするフェミニストとしての気迫が感じられる。その先に水田が見据えたのは近代文化から排除された人間性の回復であり、男性もまた女性解放思想に到達すべき主体であったのである。のちに水田が執筆した「女への逃走と女からの逃走:近代日本文学の男性像」(水田宗子『物語と反物語の風景:文学と女性の想像力』田畑書店、1993年)では、近代の男性作家が描いた女性像が批評されているが、男性が作り上げた近代的「女性」の言説構造に男性自身が囚われていたこと、「近代社会の構造のモザイクの中に嵌め込まれている」(水田1993:76)男性の内面を分析していた。水田には、男性もまた解放思想の当事者として認識されたのである。
    一方で、目黒依子は「最終的に女性解放の理論の構築あるいは性差別の理論の構築をめざすということについてですが、私は独立した理論の構築をめざすことよりも、むしろそういう理論は社会学の理論の一部であってよいと考えています」(女性学研究改編1981:75)と述べ、社会学者の立場から学問の理論構築に対する貢献を念頭に、被支配者を女性だけに限定することは望ましいものではないことを主張した。
     井上の「女性による学問」という定義に対して、「当面は」という条件付きで賛成したのが、神田道子、天野正子である。神田は「一見、性差別について深い認識を持っているかのように見える男性でも、現実にはやはり女性の持っている認識とは違うということを、深く感じている」とし、「当面やはり女性が中心になってやっていくべきだと思います」(女性学研究会編1981:178)と主張した。天野も、「当面」ということに限って女性を担い手と考え、「私自身、女性にこだわりたいという気持が強いわけです」(女性学研究改編1981:107)と立場を示し、井上と同様、女性差別の状況を実感した女性当事者の立場から、女性をめぐる抑圧の状況と構造を明らかにしていくことの必要を感じていた。舘かおるも、「私は当面まずは女性が奮発して担うべきであると強調したい」と述べ、「男性中心の学問の世界で、おかしいおかしいと感じ続けていても、その専門分野で認められるためには、既存の学問の理論なり方法論に依拠して研究しなければならなかった、という状況があったわけです」(女性学研究会編1981:177)と指摘している。
     ここまで紹介した各研究者の論点には、条件付きであれ、男性の参画を示唆するものであれ、性差構造を問題とし女性を周辺化する男性文化、近代文化に対する批判的視点が含まれていたといえるが、岩男寿美子、原ひろ子の二人にはこの視点が欠落している。岩男は、女性学の担い手に男性を排除するのは建設的なやり方でないと考えていたようで、女性学が「女性」の研究者のみによって進められることを以下のように危惧した。

    男女に差があるということを、マイナスに見る人がひじょうに多いということも、私が女性学に足をつっこんだ理由です。マイナスにみるというのは、被害者意識に転嫁して、「それは困る」という立場です。(岩男・原1979:134)

     そして、原も次のように、「女性のため」に限定された空間に違和感を持ち、男性と共に議論することの価値を考えていた。

    私は時には女性だけのグループで話し合うということも非常に刺激があると思いますが、どういうわけか女性だけのグループにいるとどうも変になります。やはり、男女が混っているところでも議論するということが、私のためには勉強になるように思います。(女性学研究会編1981:71)

    さらに原は、「女性学は必ず運動につながらなければならないとか、女性学は象牙の塔にこもらなければならないときめ込む必要もない」(岩男・原1979:143)とも論じていた。これらの主張は、研究という場における男女平等、男女が共同しての研究の実践ということについて望まれたものではあったが、残念ながらそれが近代的性差関係の上に構築された男女非対称の場であるということに対する理解は弱いといえる。
     女性学研究会が開催した1981年11月のシンポジウムにおいて、目黒依子が次のような指摘をしたことは興味深い。

    今われわれのような研究をしている人たちで、もう少し上のジェネレーションの方々に見られる傾向として、女だけかたまってやったって何もできない、そんなことはやりたくないっていう、拒否反応を示す方がいるんです。非常に立派な研究者たちですが、われわれより上のジェネレーションの方に限られているといえます。(女性学研究会編1981:174)

     目黒によって指摘された研究者は、当時すでに大学内に教授、助教授のポストを獲得し活躍していた岩男寿美子、原ひろ子らのことであろうか。
    性差の非対称性を直視しない「男女平等」論は危険である。これまでの岩男、原の主張は現在からみれば、新自由主義的ジェンダー規範に重なる。「女性活躍推進社会」などのスローガンが猛々しく掲げられ「輝く女性」なるものが注目を浴びるようになったが、一方において男性社会が用意した椅子に座ることのできた女性と、その対象から零れ落ちた女性間の格差が言いようのないほど広がっている現在、こうした議論はあらためて注意して見ていく必要があるだろう。華々しさの裏に「零れ落ちた女性」たちの問題が隠されてしまうこと、問題を覆い隠す言説構造に加担してしまう危険性に自覚的でありたいと思う。

    5、 方法論
     「女性学とは何か」という定義にも関わる問題であるが、半世紀前に誕生した女性学は、フェミニズムとの連続性の中で考えられてきたものであったが、独立した学問として方法論を明確に位置づけるものはない。上野千鶴子が、日本では非力ゆえ固有の方法論をもたずに統合型として女性学が進んだこと、女性学として自立したアカデミック・マーケットが成熟しなかった事情に触れ、女性学が学際研究として発展した事態を指摘するにとどまっている(上野2017:106)。アメリカでは女性学の学科、学部が成立した¹²⁾ことに対して、日本では日本女性学会のような「女性学」を専門とした学会は成立しても、城西国際大学のように一部を除き、女性学単独の学科、学部は誕生することはなかった。文学、社会学、歴史学などもともとある学問分野に「女性学」の視点をもった研究者が参入し、各領域の方法論で女性学的テーマを研究するという流れが歴史となったのである。
    このように、日本では「女性学」としての独自の方法論を構築することなしに、各分野に散らばった研究者がその領域の方法論を用いて、女性学的テーマを取り上げ、それぞれの研究を「女性学」関連の学会に持ち寄ることで、「女性学」の場の形成が行われたが、分離型路線をとった城西国際大学における女性学の教育プログラムも、方法論については統合型のそれと同様であった。ジェンダーという視座から多分野を横断的に学べるプログラムは敷いていたが、その一つひとつの講義を担当するのは、各分野の方法論に特化し、その分野をバックグランドとする研究者によってであり、女性学として統一された方法論が教授されるものではなかった。
    私が大学院生として女性学を学んだ2000年代、すでに「女性学」に関する総論的テキストは数多く出版され¹³⁾、女性学基礎論などにおいて「女性学」が扱うべきトピックとして、「男女共同参画社会」「ドメスティック・バイオレンス」「セクシュアル・マイノリティ」「ポストコロニアリズム」「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」「近代家族」「家父長制社会」「廃娼運動」「女権思想」などが取り上げられたが、それらを論じるため「女性学」としての方法論があらためて示されることはなかった。
    女性学から研究を始めようとする私たち世代が、女性学的テーマ群が寄り集まったテキストを読み込むとき、文学、社会学、哲学、歴史学、政治学などの方法論修得の上にそれらの問題を論じることが自明のこととされ、各分野の方法論を経過しなくては、その問題を論じる地点に辿りつけないというジレンマを抱えた。
    そして現在、結果として女性学の特定の方法論は定まっていないが、女性学草創期において、従来の学問分野にとらわれない新しい問題設定と、それにふさわしい方法による、女性学という独自の領域を確立すべきという立場を主張した研究者もいた。波田あい子、舘かおるは、あらたな方法論の確立を見据えて女性学は独立した学問領域として成立可能という立場をとった。一方、独立した学問領域として女性学は成立せず、既存の学問領域の方法論を用いてそれぞれの領域に女性学の視点を導入すべきだと主張したのは、天野正子、田中和子、岩男寿美子である。
     独立した領域として女性学が成立し得ると主張とした波田あい子は、女性学としての独自の方法論について「かなりおぼつかないながらそれが可能であるという立場」(女性学研究会編1981:159)を表明した。現状において女性学は、女性問題研究の「体系化」「総合化」をめざすものであり、その構築は困難であるが、方法論を探求しようとする志向性を女性学はもっていると理解した。女性学がそうした志向性をもつのは、女性学が「科学的装置を経たものだけが客観的なものであるとか、そうした訓練を受けた専門家だけが客観性をもちうるとかという科学主義、客観主義」(女性学研究会編1981:159-160)に批判を加えるべきものであることを認識していたためである。しかし一方において、女性学の方法を独自に確立するとき、客観的妥当性をどのように構築し得るのかという疑問点を指摘していた。
     舘かおるは、「従来の学問分野にわかれた研究方法では、女性の問題の本質に迫れないということを痛感」(女性学研究会編1981:158)していることを前提に、女性学として既存の学問分野に女性学的視点を取り入れていけば良いという立場はとらないことを示していた。ただし、女性学独自の方法論を構築するというよりも、既存の分野に対して相対的なものとして、「いくつかの方法論を身につけて、それが難しいなら、少なくとも他の学問分野の成果を取り入れて発展させる」(女性学研究会編1981:158)ことで、女性学としての場の形成をすることを志向した。
     波田、舘は独自の方法論の確立という点を視野に入れていたが、水田宗子の場合は方法論に関する具体的な言及というよりは、既存の学問領域からは独立した場を確立すべきという見解を示していた。
    水田は、女性学が既存の学問の内部に回収されてしまうと、その研究は「既成の分野内での研究であるがゆえに、特に厳しい批判を受ける傾向が強く、独自な研究になりにくい弊害がある」「女性学を担当する教師は多くの場合女性であるが、講師・助教授の女性が女性学のみを研究発表している場合、その業績が認められず、テニュア(終身雇用)の保証がとれない場合が多い」(水田1979:26)と指摘していた。当時、アメリカの大学において、女性教員がテニュアの資格を得られるかどうかについて、女性研究者にとっては深刻な問題となっており、1980年代初頭には「エステル・フリードマン事件」というものが起きている。女性学研究者であり、当時スタンフォード大学に勤めていたエステル・フリードマンのテニュア保障をめぐって、フリードマンが属していた学部の学部長が女性学研究の非生産性などを理由に、その推薦を却下するという事態が起きた。結果として、訴訟に発展する直前に、同大学の副学長が長期間の調査を命じたことにより、フリードマンには、テニュア付の昇格が認められ、テニュアの推薦を却下した学部長は解任され大学を辞職するという事態に至ったという(フリードマン2017:44-46)。水田の指摘は、こうしたコンテクストから主張されたものであったことを踏まえる必要があるだろう。
    また、既存の学問の中で女性学を実践しようとした場合に生じる矛盾を次にように的確に捉えている。

    既成の分野内で女性学講座を持ち研究を進めることは、大学の機構改革を要求しないので容易なようでありながら、女性学を学問として認めない権威者に、認められるような業績をあげなければならないという、矛盾した、ほとんど不可能な努力を強いられることになる。(水田宗子1979:26、傍点筆者)

    このように、女性研究者が女性学に関わるテーマを既存の学問分野で追求する際に起こり得る不都合を、大学内の権力構造を踏まえた上で見据え、その領域から独立して研究がなされることが望ましいと水田は考えていた。
    そして水田は、研究が独自なものとして認められるために、独立した女性学部、女性学のプログラムを設置する必要があることを指摘している。方法論までの言及には至らなかったが、この理解がのちに日本に分離型として女性学専門の大学院を設置する動機となっていったと考えられる。
     一方で、女性学独自の方法論は確立し得ないと指摘したのが、天野正子、岩男寿美子である。
     天野は自身の専門である社会学の分析方法を用いて女性学の研究を行うという立場にたったが、独立型に対する危惧として、「かりに独立の領域が置かれれば、そこで積み重ねられた研究成果は、その研究領域のものだけに帰属してしまい、各研究領域の男性研究者による従来の視点に働きかけ、あるいは衝撃を与えるという、交流やかかわりあいといってもよいのですが、そういう重要な側面を失っていく危険性があるのではないか」(女性学研究会編1981:105)と指摘している。
     岩男は、女性学に固有な研究方法があるかについて考えた時、その答えは「ノー」であると答えている。女性学は、「女性に関する問題を研究したものの総称である」(岩男・原1979:34)ため、女性学に固有の研究方法があるとは考えられない。「もし、新しい独立の学科が置かれれば、女性学は他の学科と切り離された形で存在することになり、既存の学問分野の状態は、いっこうに変わらない」(岩男・原1979:35)として、女性学の独立を考えた水田とは反対の、女性学の体制内化におけるその変革を考えた。

    6、 運動と研究の関わり
     女性学が日本において制度化された1970年代後半は、すでにウーマン・リブ運動の火花が飛び散ったあとの時期であり、成立期の女性学は、フェミニズム運動とどのように共闘すべきなのかという問題にもぶつかっている。
     運動と研究の相互補完を指摘したのは、井上輝子と有賀夏紀である。井上は、運動と女性学の目的は同一であり切り離して考えられるべきものではないこと、女性学が運動の一助になるべきことを指摘した。有賀も同様に、相互関係を見据えて「研究に刺激を与えるということで貢献し、女性学は理論を提供し、教育によるイデオロギーの普及を促すということで、女性解放運動に貢献できるのではないか」(女性学研究会編1981:120)と主張した。
    また、井上は、「女性の研究者がふえていくということ自体が、女性解放に役立つ」(女性学研究改編1981:58)と述べていた。「女性の研究者が増えること」については、現在において新自由主義路線の中で、手放しで賞賛できる事態になっていないことは残念である。男性優位――女性排除――の論理で構成されていた学問世界の規範に対して「女性」の存在が変革の一手となるのではなく、むしろその規範に都合よく回収され、変革どころか「名誉男性」としてその構造の補完を担っている事態が懸念されるためである。
    しかし井上の場合、女性差別に対する実感の深さが先行しており、その上での主張であったことを考えれば、男性支配の学問機構の中で女性がポストを獲得することの困難は、この女性学第一世代が痛切に経験した問題であったであろうという点を理解しておく必要があるだろう。
     また水田宗子は、女性学が「運動」それ自体の試みであることを明確に意識していた。水田は、「女性学が学問としての基礎を固めてくるにつれて、運動体から遊離した純アカデミックなものに、そして一般女性から離れたエリート女性の研究になっていく危険性は確かに一部にうかがえる」(水田1979:32)と警鐘を鳴らす。女性に関する問題を、アカデミズムの方法論に引き寄せて議論してしまうと、「女性の自己認識による人間解放志向をあいまいにしてしまう危険」(水田1979:32)があることを理解していた。この「女性の自己認識による人間解放志向」という点は、城西国際大学における水田の指導の場で重要視されたものであり、私たちが論文を書く際には、修得必須のジェンダー批評の視点として、徹底した指導を受けた。2002年に水田が出版した『女性学との出会い』には、この認識について拘ることになったアメリカでの経験が述べられている¹⁴⁾。アメリカにおいて「外国人」として「女性」として二重の差別を受けた水田の屈折した自己認識をめぐる経験が下敷きになっていたようである。
    このように水田は、女性学は「女性解放志向」がなくては成り立たない学問であるとし、女性学は「運動に最も直接的に関係して存在する学問」であり、「研究者の問題意識がなくては存在しない学問」(水田1981:10)であると論じた。加えて、水田は女性学と運動の距離、女性学がいかに展開すべきかについて、以下のことを述べていた。

    女性学を専攻する学生の多くが、すでに結婚や社会生活を経験した者であることも重要な点である。女性解放運動と深く結びつき、女性の自己認識の高まりを反映した女性学にとって、このことは当然である。(水田1979:28)

    女性学は女性センターやYMCAなどとも密接な関わりを持ち、広く大学の職員、付近のコミュニティに開かれた学問・教育の場として発展していくことを志向している。(水田1979:28)

     水田が創設した城西国際大学大学院の女性学は社会人学生を多く受け入れ、学部教育では副専攻を敷き、大学院教育の補助機関としてジェンダー・女性学研究所を設置して、地域社会に開放された無料の女性学連続講座等を開講するなど、大学知と社会の関心、ニーズを有機的に結合するプログラムを実施してきた。それはこうした大学と女性解放運動との結びつきを重視する認識の上に展開されたことであったのだろう。水田の女性学構想は、学生、卒業生、大学教職員、地域コミュニティという社会の横の連帯の思想も有していたのであり、その動きそれ自体が女性学の運動実践として考えられていたのであろう。
     運動の意味を殺さず、自立した場を確保することによって大学と女性学運動との共生をはかろうとした水田であったが、一方、駒尺喜美は「学問が、出世の道につながらなかったならば、社会でこれほどの権威にはならなかっただろう」(駒尺1981:4)と学問と権威の関係を捉え、「学問はどこにでも成立するものである。人がそれを知ろうと欲し、そのことの研究の必要性を感じ、その成果を積み重ねてゆくとき、どこにでも学問は成立する。ただそれが、大学で講じられるようになったとき、社会的に<学問>として認知されるだけである」(駒尺1981:4)として、大学の内部ではなく、その外部に研究の場が成立することに意味を見出した。
    因みに駒尺喜美が初代代表幹事を務めた日本女性学会の第1回シンポジウム「女性学の出発」(1980年6月)が法政大学で開催されている。このとき開会の挨拶を行った藤枝澪子は、「アメリカに発生したWomen’s Studiesはフェミニズムから出発していることを忘れてはならない。元来女性学の問題は、アカデミズムに閉じこもらず、実践的であることが重要である」(日本女性学会1981)ことを指摘している。1979年に発足した日本女性学会は1987年に日本学術会議の登録団体となっているが、その前段階において「アカデミズムに閉じこもらないこと」「実践的であること」という側面が強調されていたことにも注目しておく必要があるだろう。
     この他、研究と運動のあるべき距離を指摘したのは、目黒依子と神田道子とである。目黒は、その両者に区別があるという点を指摘し、神田は、研究と運動の密着関係に対する危惧を次のように示した。

    運動と研究があまりにも密着しすぎると、双方にとってよくないように思います。一定の運動の方向が定められていて、それに沿った研究だけがとりあげられ、運動の方向に合致しない研究は無視するということになりますと、運動の発展にもマイナスになるし、また、その結果、一定の運動に対する一定の研究者という関係ができ、それが固定化すると、研究にもマイナスになることが多いのではないかと思われます。(女性学研究会編1981:133-134)

     運動が研究を利用するだけでなく、その逆もまた想定されることであると思うが、とにかくここで運動と研究の関係性に対して、その繋がりに対する不安が示されたことは興味深い。神田の危惧は、現在の慰安婦運動や障害者運動などから考えても重要であり、研究と運動の距離の取り方、重なりについては、フェミニズムとの連続性の上に成立した女性学が抱えた課題として大きい。

    7、 女性学発展の条件――女性学は発展的に解消するか――
     さて最後に「女性学」という新しい学問は、女性差別からの解放を前提として始まったものであるので、いずれそれは解消すべきかどうかという点が、すでに女性学成立時から議論されていた。これについて「女性学」という言葉は残らない方が良いと考えたのは岩男寿美子、原ひろ子であり、性差別の状況を当事者意識から受け止め、簡単には解消できないという立場を示したのが井上輝子、水田宗子であった。
     岩男は、女性学の発展的解消を望み、以下のように述べている。

    将来のことをいえば、ある意味では、女性学という言葉は女性のために残らないほうがいいんじゃないかと思う。つまり、バランスがとれたら、だれもあらためて女性学なんていう必要はなくなって、人間学として、人類の半分である女性を必ず入れてものを考えるようになるはずです。(岩男・原1979:162、傍点筆者)

     原も岩男の発言に続いて、「ともかく、女性学というレッテルを貼らないでも、それぞれのやっているテーマに関して、いったいこれについては男と女はどうなっているのだろうと考えることができるようになれば、わざわざ女性学をことあげしなくてもよくなるわね」(岩男・原1979:162)と指摘している。このように岩男、原は、女性学の存在をそれほど重要視しておらず、バランスやテーマの選定次第で「女性学」は発展解消できると考えていた。
    一方、井上輝子は、発展的解消を当時の時点で望むことができるのかどうか、疑問を投げかけている。

    今私が語りたいのは、現在私たちがやろうとしている女性学についてなのです。私たちが今問題にしているような性差別がなくなって、女性学が人間学一般に解消されるような時代が何十年かの間に簡単に達成されるかどうか、私にはわかりません。(女性学研究会編1981:83-84)

     井上は、当事者性をもって自分自身の解放を考えること、また自分にとって切実な問題を追究していくことで全体の解放がありうると理解した。井上の「私はやっぱり女であるわけで、まず私自身の解放をなによりも考えたいと思うわけです」(女性学研究改編1981:84)という言葉は意義深い。リブの影響を受けた井上だけあって、田中美津の「ここにいる女」の概念にも通底する理解が、女性学に持ち込まれているのではないだろうか。
     そして水田は、女性学に研究者個人の問題意識が反映されることを重要視していたこと、また、運動と関係の深い関係性を考えていたこともあって、女性が差別を受けている限り、それは存続するものであると考えた。性差別構造を持つ社会・文明を超えていかなければその解消はないのであり、「性差別を不幸と感じる個人がいる限り研究は続けられるだろう」(水田1981:14)と示した。

    8、 私にとっての「女性学」という場――「女性学」は解消されるのか――
    以上、1970年代後半から80年代初頭に行われた女性学に関する各研究者の議論について考察した。
    研究者それぞれの立場や理解で女性学への想いが述べられていたが、おおよそ、女性学とは、性差の権力関係を問題とし、この事態の解消を目指して、既存の学問体系に対峙しうる女性学的知性を構築する営みとして理解されたものであったと捉えることができるだろう。その後半世紀がたち、日本の女性学は、独立した一つの学問として方法論を確立したのではなく、既存の学問の方法論に依拠する形での展開が主流を占めるようになったが、その成立当初、成立の意義と志をもって、侃々諤々の議論があったことをあらためて認識することができたと思う。各研究者の議論のうち、とりわけ井上輝子と水田宗子の女性の経験についての直感的な主張が私には印象的だった。「女性がまずやるべき」であることに拘った井上輝子の主張には、性差別に対する実感の深さが込められておりその信念は一貫していた。また水田宗子が既存の学問領域からの独立を主張した根底には、「女性の自己認識による人間解放」の志が貫徹していた。彼女たちの議論から、女性研究者として女性学にコミットする「当事者性」を感じとることができたのである。
     そして草創期の水田宗子の女性学に関する議論を振り返って、その時期の水田の思想の大部分が城西女性学に活かされていたことを再認識した。既存の学問体系の外部を目指して、学際的に横断可能な総合的な女性学プログラム(大学院)を設置し、学部・大学院・地域社会との連携を見据えた研究所を設置したその背景には、水田自身のアメリカでの女性・外国人研究者としての経験があったのである。個別の問題意識によって自己の研究テーマを確立することが、水田の第一の指導方針であり、既存の学問領域の方法論、テーマ設定では言語化できなかった問題群を引き出すことが重要とされた。そこではジェンダー文化の解体を志向し、既存の文化構造・ディシプリンから零れ落ちるものを掬っていく営為が求められたのである。これは「社会改良・文化革命を目指す」という初期の水田の志の上に行われた指導方針だったのだろう。
    こうした城西女性学の経験を踏まえて私自身が捉えるならば、女性学とは性差の権力構造の中で言語化できなかった個別の経験を言語化することによって、その問題構造を問い、一人ひとりがそこから解放されていくプロセスだということになるだろう。学際的にフェミニズムの問題群を学んできた私たちは、それぞれが論文を発表し寄り集まることによって、分離型女性学としての体を成していた。自分の違和感をまずは第一に表現すること、それを分離型女性学は可能にしてくれた。
    そうした中にあって、大学院に存在した「女性学」の場はたとえ分離型女性学であってもやはり研究であり、学問の場であって、自分の問題意識を表現する際に方法論に対する不安を抱えたこと、「分離型」として囲われた場から、既存の方法論を身に付けた女性学との対話のルートを開くことが困難だったということも、骨身に染みた「負」の経験として私の脳裏に刻まれている。たとえば、何かしらのフェミニズムの問題意識をもって女性作家の作品を取り上げてみれば、いわゆる文学ではない研究者や学生から「私には文学は分かりません」「文学は専門ではないので」という切り口の伝家の宝刀が抜かれ、専門性を理由にその問題の議論が閉ざされるか、相手の方法論に取り込まれ議論が煙に巻かれるという事態である。あるいは逆に文学の研究者から、その議論は文学の方法論に依っていないということで、判定不能の烙印を押されるという場合もある。対話において「分からない」「意味が取れない」ことの責任がこちらに向けられる構造の中で、「知」に関わるさまざまな作法の修得に苦痛を感じたことは、今でもトラウマとなって身体化されている。
    私は、自分自身が抱えた問題意識を解決するための手段として「女性学」

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