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  • 若い女性のフェミニズム離れをどう読み解くか

    2019/05/09

    • リサーチ

    著者名:高橋 幸

    1983年生まれ。2008年東京大学大学院総合文化研究科で修士号を取得、2014年同博士課程単位取得退学。現在は、武蔵大学(他)で非常勤講師を務めながら、博士論文を執筆している。専門は、ゲオルク・ジンメルを中心とする社会学理論、ジェンダー理論。

    コメンテーター:斎藤 美奈子(さいとうみなこ)

    若い女性のフェミニズム離れをどう読み解くか

    若い女性の「フェミニズム離れ」をどう読み解くか
    ――#WomenAgainstFeminism(2013-2014)の分析から――
    The Latest Post Feminists Claims:
    Sociological Analysis on #WomenAgainstFeminism in 2013-2014

    1. はじめに
    1960年代末から1980年代初頭まで、フェミニズム原理(feminism principle)を社会に浸透させる機能を果たしてきたのは女性運動(women's liberation movement、ウーマンリブ)であった。第二波フェミニズムは、この時期の女性運動の理論的支柱となってきた。
    1980年代以降になると、フェミニズム原理を社会に浸透させる機能を果たすものとして、テレビやラジオ、雑誌、映画、音楽、マンガ・アニメなどのポピュラー・カルチャーが加わるようになる。女性の声をなるべく直接、社会に表明することを目指す女性運動の立場から見れば、マスメディアと資本の論理を媒介して伝達される「フェミニズム」は歪みを持つものであった。例えば、購読者数・視聴者数を獲得しやすい性的に解放された女性や、エンパワーメントされた労働力としての女性というテーマに過度の注目が集まるといったことがある。ただし、フェミニズムの側もまた、女性に対する社会の注目を使いながら、新しい形でフェミニズム原理を広める方法を模索してきた。
    多くの人の継続的な活動の結果、フェミニズム原理は社会常識の一角を成すものとなりつつある。しかし、奇妙なことに、男女ともに多くの人がフェミニズム原理を支持するようになったにもかかわらず、自分をフェミニストと自称したり他称されたりすることを避けるという態度が顕著に見られる。フェミニストはあたかも、フェミニズム原理が広く薄く受容されていく社会を成り立たせるための人身御供かのようだ。
    とくに「若い女性」がフェミニズムから距離をとる現象はポスト・フェミニズムの大きな特徴とされ、1990年代以降英米において社会調査や研究が進められてきた。フェミニズムから距離を取る若い女性は、ジェンダーを個人的な問題とし、女性という集合的アイデンティティに基づいた運動を進めようとするフェミニズムを拒否するという特徴を持つ(Jones 2016)。ここには、第二波フェミニズムの中心的テーゼ「個人的なものは政治的なものである」に反する態度が見られる。なぜ、ポスト・フェミニストはジェンダーの問題を「個人的なもの」と捉え、政治的・社会的なテーマとすることに反対するのか。この問いを明らかにするためには、ポスト・フェミニストたちの具体的な主張内容を見ていく必要がある。
    ポスト・フェミニストは従来の集合的・政治的運動の形態での活動を行わない。そのため、アンチ・フェミニズム組織の研究によってその主張内容やその実態を明らかにしていくという手法(例えば、山口・斎藤・荻上 2012、Jones 2016など)をとることができない。これまでのポスト・フェミニズム研究は、メディア上での女性表象や、女性アーティストによる女性性表象の分析を行うポピュラー・カルチャー研究において蓄積され、発展してきた(McRobbie 2009、田中2013)。
    本稿では、個人の主張として発信されつつ社会運動に似た様相を呈しているハッシュタグ・アクティビズムに着目する。SNS上のハッシュタグを使った新しい社会運動は、2010年の「アラブの春」や「ロス・インディグナドス」、2011年の「オキュパイ・ウォールストリート」などを通して注目されるようになっている(Bennett & Segerberg 2012、Gerbaudo 2012)。その後も、2013年から「#BlackLivesMatter(黒人の命は大切)」、2017年から「#MeToo(私もセクハラ被害者だ)」などが生じた。ポスト・フェミニストたちのジェンダーに関する意識や態度、主張内容を見るための資料として、本稿は2013年から2014年に生じた「#WomenAgainstFeminism(フェミニズムに反対する女性たち)」キャンペーンを分析する。
    #WomenAgainstFeminismは、英語圏を中心に起こったハッシュタグ・アクティビズムであり、「フェミニズムに反対する理由」を書いた手書きのメモをもって撮影したセルフィ(自撮り写真)が投稿された点が特徴である。本稿が分析対象とするTumblr(タンブラー)「Women Against Feminism」の「アーカイブ」に蓄積された写真群は、一切の個人情報がクリーニングされているため、投稿した場所――投稿者の居住国・地域等、ならびに投稿者が当該ハッシュタグ付き写真をインターネット空間上のどこに投稿したのか(Facebook、Twitter等)――はわからない。外見から判断する限り年齢は10代後半から30代くらいまでの若い層に偏っているが、正確な年齢は不明。学歴、職業等の属性についても不明である。ある程度の肌の色はわかるが、宗教はわからない。ファッションや室内の雰囲気といった外見からわかる情報は多いが、外見からわかる情報しかわからないというのが、この資料体の特徴である。
    本稿は、2.において、ポスト・フェミニズムについてのこれまでの議論をまとめる。3.で分析対象と分析方法を論じ、4.においてフェミニズム不要を主張する「#WomenAgainstFeminism」を分析する。この分析を通して、ポスト・フェミニストがジェンダー問題を「個人的なもの」として主張するのはなぜかを明らかにする。

    2. 先行研究の検討
    2.1 ポスト・フェミニズムとは
    ポスト・フェミニズムやポスト・フェミニストという語は、ウーマンリブが一段落ついたと見なされはじめた1980年代の英語圏で、一般的に用いられるようになった。当初これらの語はアンチ・フェミニズム派によって使用され、フェミニズムはもはや不必要であるという意味を込めて使われていた(三浦 2013, 菊地 2016)。だが、1990年代以降は、フェミニズムから距離を取る若い女性の動向の実態把握・分析という課題を指すさいに、フェミニズム内部でも用いられるようになっている(Heywood 2005:252-253)。
    また、ポスト・モダンやポスト・コロニアリズムといった用法に見られるように、「ポスト」という語はモダンやコロニアリズムが終わったことを意味するというよりも、それらが新しい権力関係や資本、メディア、技術の中で、新しい段階に至ったことを指し示すものである。このことを踏まえれば、ポスト・フェミニズムもまた、新自由主義という権力形態のもと資本の論理とマスメディアの論理を通して新たに編成されているジェンダー秩序を捉えるためのパースペクティブを指す概念として用いることができる(竹村 2003)。第三派フェミニズムではなく、ポスト・フェミニズムという分析視点をとることで、フェミニズムに加担する/しないというイデオロギー上の決断主義に陥らずに、ジェンダー秩序の社会学的分析をすることが可能になる。
     実際、2.2.で論じるように、とくにポピュラー・カルチャーを対象とするポスト・フェミニズム研究では、新自由主義的権力下でのジェンダー秩序の分析・解明というパースペクティブでの研究がなされている。

    2.2.ポピュラー・カルチャー研究におけるポスト・フェミニズム研究
    ポスト・フェミニズムについての研究は、これまで主に二つの領域で行われてきた。一つは、ポピュラー・カルチャー研究領域での女性表象研究であり、もう一つは若い女性についての社会調査研究である。
    イギリスのバーミンガム大学でカルチュラル・スタディーズをフェミニズムの立場から担ったアンジェラ・マクロビー(1951-)は『フェミニズムの余波(Aftermath of Feminism)』(2009)において、ニュー・レイバー政権による「個人化」や「個人主義」といったスローガンを通した新自由主義政策の影響を受けたジェンダー問題の「個人化」傾向を指摘している。90年代、共産主義という「敵」を失ったリベラルな中道左派政権(1)は「自由」に新しい生命を吹き込むため、個人レベルでの自由の感覚の増大を政策の指針に据えるようになった(Giddens 1994=2002)。女性や非白人、旧植民地出身の国民、移民、衰退産業労働者やその家族成員などをすべて「個人」と言い表し、個人と社会を「活性化」する新自由主義的経済政策を進めていった。女性を「個人」と捉えたうえでの女性政策が進められ、フェミニズムの主張や要求のなかでも新自由主義的経済政策に適合的な部分だけが、政府主導で実現されていく。このような権力形態の変化のなか、テレビやラジオ、音楽、ドラマ、映画などのポピュラー・カルチャーにおいては、女性たちが自由を謳歌する「解放された女性」表象が増えていくのと同時に、「平等はすでに達成されており、…(中略)…もはやフェミニズムは必要なく、フェミニズムは力を使い果たしたのだ」という態度をとる女性表象(2)が増えていった(McRobbie 2009:11-12)。
    これに対して、マクロビーは、もともと平等でない人々を一律に「個人」として処遇し、それを個人の自由の増大と主張することは、不平等を是正しないまま自己責任を強めることであると批判する。そして、構造的不平等性が残っているにもかかわらず、若い女性たちが、ジェンダーに関連する問題もまた個人の選択やエンパワーメントによって解決しうると考えるようになることの問題性を指摘した。新自由主義の進展によるジェンダー問題の個人化という点は、ナンシー・フレイザー(2013)やロザリンド・ジル(2007、2017)、ナターシャ・ワルター(2009)など他の多くの論者によっても指摘されている。

    2.3.ポスト・フェミニストの態度についての社会調査
    以上のようなポピュラー・カルチャー研究による説明は、新自由主義的権力の強化という社会的背景においてポスト・フェミニズムの声が大きくなってきたことや、その具体的な様相を明らかにしてくれるが、実際にどの程度の「若い女性」が、フェミニズムに反発したり、距離を取ったりしているのかについてはわからない。この問いに答えてくれるものとして、90年代の英米を中心に行われたポスト・フェミニストに関する社会調査研究がある。
    アメリカの或るカトリック大学の女子大学生(白人90.4%、カトリック教徒89.4%)を調査したレンツェッティ(1987)の研究によれば、「私は自分をフェミニストだと考えている」に賛成したのは全体の27.3%で、およそ半数が「フェミニストではない」と答え、23.4%が「決めていない」と答えている。
    この結果は、90年代のCBSニュース世論調査等の調査結果(3)ともほぼ合致する。ボクサー(1997)はニューヨークタイムスの記事で、1997年9月18日から20日に行われたCBSニュースの世論調査を取り上げ、すべての年齢の女性の3/4が「女性の地位は過去の25年間に改善した」と答えたが、自らをフェミニストであるとしたのはおよそ1/3であったことを指摘している。この乖離をボクサーは「フェミニスト」という語の多義性によるものと分析している。
    シーゲル(1996)は、1985年にフォーカスグループディスカッションとニュージャージーの住民650人に対する電話調査を行い、女性運動について肯定的に感じているが女性運動に参加しない理由として、女性運動は「行き過ぎ」かもしれないと感じており、また女性運動は「男性との関係を悪くする」と感じているためであるということを明らかにしている。
    これらの研究を踏まえたアロンソン(2003)は、1996-97年にアメリカの「若い女性」(1973年生まれ、調査時23-24歳、)40名(人種、階級に配慮したインフォーマント選択がなされている)に対するデプス・インタビューを行い、フェミニストだと自称したのは全体の14.3%(6名)、フェミニズムに対してアンビバレントな態度を示す人の割合は59.5%(25名)、フェミニズムについて考えたこともないという人が26.2%(11名)となったと報告している。アロンソンは、フェミニズムに対する「アンビバレント」な態度は、さらに「フェミニストだが、しかし(I'm a feminist, but...)」タイプ、「フェミニストではないが、しかし(I'm not a feminist, but...)」タイプ、どちらとも決めていないとした「フェンス・シッター(fence sitter)」タイプの3つに分けられるとしている(Aronson 2003:913-917)。この調査でも、若い女性たちは、男女の平等賃金、女性の経済的自立、性的自由や性的自立(妊娠中絶の権利)といったフェミニズム・イシューに関してはフェミニズムの主張に同意しているが、自分がフェミニストと同一視されることを拒否するという態度を有していることが明らかとなった。
    これらの研究より、多くの若い女性たちがフェミニズム・イシューを支持するが、自らはフェミニズム運動にコミットしないという「曖昧な態度」をとっているという実態が見えてきた。ただし、これらの研究では、ポスト・フェミニズムとアンチ・フェミニズムの違いは明瞭ではない。
    この問題に答えた論文としてアナ・ジョーダン(2016)がある。ジョーダンは、「男性権利運動家」の男女へのインタビュー調査(4)に基づいて、アンチ・フェミニズムとポスト・フェミニズムの概念化を行っている。アンチ・フェミニズムとは政治的・集合的運動の立場からフェミニズムに反対する態度を特徴とするのに対して、ポスト・フェミニズムとはジェンダーの問題を脱政治化し(depoliticized)個人の問題として捉える態度を特徴とする(Jordan 2016: 33、表 – 1)。
     ここから、ポスト・フェミニズムとは、フェミニズムの集合的運動という態度から距離を取り、ジェンダーに関連する問題を個人的な問題として捉えるものとして定義することができる。

    3. 分析対象と分析方法
    3.1 分析対象
    バックラッシュを含めたアンチ・フェミニズムは集合的・政治的活動を必要と考える傾向があるため、組織化された運動を観察・観測することで、その主張内容や態度を明らかにすることができる(Jordan 2016、山口・斎藤・荻上 2012)。しかし、組織化された運動の形態をとらないポスト・フェミニズムを観察するには、個人的な意見主張のかたちで表明されたものを分析対象とする必要がある。そこで、本稿では、個人的な情報発信メディアとして用いられているSNSに着目し、女性投稿者がSNSを通してフェミニズムへの違和感を表明したものを分析の対象とする。
    2013年から2015年にかけてフェイスブック(Facebook)やツイッター(Twitter)、タンブラー(Tumblr)、ユーチューブ(YouTube)などにおいて、「#WomenAgainstFeminism(フェミニズムに反対する女性、以下ハッシュタグ名で表記する)」が起こった。2013年に「誰がフェミニズムを必要とするのか("Who Needs Feminism")」 キャンペーンが始まり、ほどなくして「フェミニズムに反対する女性(”Women Against Feminism”)」キャンペーンへと拡大した。とくに、2014年7月から8月に、複数人のコラムニストやブロガーがとりあげたことで、メディアの注目を集めるようになった(5)。
    #WomenAgainstFeminismキャンペーンは、「若い女性」が、フェミニズムに反対する理由を手書きでメモにし、それを持ってセルフィ(自撮り写真)を撮影し、ハッシュタグをつけて投稿するものである。手書きのメモは、定型化された「私はフェミニズムを必要としない、なぜなら…(I don't need feminism, because…)」という文章から始まり、その後に各自が考える理由が列挙されている。顔を出していることや、メモが手書きであること、また多くの写真の背景が自宅や自分の部屋と思われる場所であることから、彼女たちが自分の個人的な主張を自発的に表明しているという印象を与えるものとなっている。
    ここでは、タンブラー「Women Against Feminism」(6)の「アーカイブ」に蓄積されている投稿写真をデータとする。このアーカイブには、ハッシュタグ「#WomenAgainstFeminism」(「#womenagainstfeminism」を含む)が付けられた写真をだれでも自由に投稿できるようになっており、自分で投稿することも、他人が投稿することもできる。投稿された写真はすべて匿名で、写真撮影地や撮影時間、写真投稿時間や投稿場所も不明である。だが、セルフィというその特性上、ある程度の年齢や肌の色はわかる。年齢は、10代後半から30代くらいまでの若い層が多い。また、コーカソイドが多いが、アフリカ系やアジア系、ムスリム風のスカーフをかぶった女性も見られた。
    当該アーカイブが始まった2013年7月から、更新が止まっている2017年10月までの間に、合計で延べ1000枚以上の写真が蓄積されている。分析対象とするのは、2013年7月から2014年12月までとした。その理由は、2015年以降の投稿は、それまでに投稿された写真の再投稿であることが多く、また投稿数が極端に減っているためである。
    アメリカの作家でジャーナリストのニーナ・バーリー(Nina Burleigh)は#WomenAgainstFeminismキャンペーンと同様のテーマおよび内容が、男性権利運動ウェブサイトにも見られたことを指摘し、これは男性権利活動家のソック・パペット(Sockpuppet、なりすまし)によるものである可能性があると論じている(7)。たしかに、初期にはセルフィという形式が確立しておらず、フェミニズムに反対する理由を女性の立場から主張した文章のみの投稿が多かった。セルフィではない文章だけの投稿ならば気軽にできるだけでなく、男性が投稿することも容易だ。また、写真加工によって、女性の顔写真とフェミニズムに反対する理由を書いた文章とを並べただけのものなども散見され、これもソック・パペットの可能性がないとはいえない。
    そこで、下記の基準を設定し、目視でスクリーニングを行った。これによって、ソック・パペットによる投稿の可能性を排除できると考えられる。すなわち、分析対象とする写真は、(1)女性と思われる人物が自分の顔か、もしくは身体の一部を写しており、(2)「フェミニズムが必要ない理由」を書いた手書きのメモを持っている、(3)セルフィであること。
     この基準に従い、例えば次のようなものは除外した。文章が手書きのメモでなく、コピー&ペーストが容易なパソコン等で作られた文書をもった女性のセルフィ(これは(2)の条件を満たさない)や、「私がフェミニズムを必要としない理由」が書かれた文章と女性の顔写真が合成されて、一枚の写真として投稿されているが、写真がセルフィでないもの(これは(3)の条件を満たさない)などである。
     逆に、顔そのものは隠されていたり切れていたりしているが、女性性の記号となるもの――具体的には、プッシュアップした胸、くびれた腰、ムスリムのスカーフ、エナメルが塗られたネイルなどがあった――が写りこんでいるもので、上記の3つの条件を満たすものは分析対象に含めている。
    「I need feminism」という文章で始まるものもいくつかあるが、その多くが「魚が自転車を必要とするように、私はフェミニズムを必要とする」という定型文を書いたもので、揶揄的にフェミニズム不要を主張する投稿である。これに関しては、フェミニズムが不要である理由が曖昧であるため、分析対象から除外した。
    また、英語で発信しているものに限ったため、英語以外の他言語のものは分析対象から除いた。ちなみに日本語での投稿はなかった。このハッシュタグ・アクティビズムがインパクトを持ったのは、女性によるセルフィ投稿という形式をとった点にあるが、タンブラー「Women Against Feminism」アーカイブ全体を見ると、セルフィ形式のものではなく文章のみの投稿が約8割を占めている。また、同じ写真が何度も投稿されているケースも多かった。それらをすべて目視で取り除いた結果、収集された写真は139人分(計142枚、1名は3枚の写真を、もう1名は2枚の写真を連続投稿して長文のメッセージとしていたため)となった。
    このスクリーニング方法を以ってしても、男性権利運動家の男性が妻や恋人、友人等に頼んで、手書きのメモを持ったセルフィを投稿させている可能性については排除できない。そうであるとしても、女性が個人の意見表明という形でフェミニズムへの違和感が語るさいの語り(narrative)の型を明らかにすることができるためこの対象の分析は意義のあるものと考えられる。

    3.2 分析方法
     セルフィに掲げられている「私がフェミニズムを必要としない理由」のテクスト分析を行う。セルフィであるため、肌の色やおおよその年齢、雰囲気といった情報も手に入れることができるが、これらは必要に応じて分析のさいに参照することとする。
    すべての写真において、一枚の写真に写っている人物は一人だが、いくつかの理由を箇条書きにして列挙していることが多い。その場合には、それぞれの理由ごとにカウントし、コーディングした。この分析によって、#WomenAgainstFeminismキャンペーンに見られる女性たちの主張内容の傾向を把握し、具体的な主張内容を明らかにしていく。
    彼女たちが述べている「私がフェミニズムを必要としない理由」は、次の6つにコーディングできる。

     1 家庭生活重視:家庭生活における女性的役割を重視するもの。
     2 恋愛・セクシュアリティ重視:恋愛・セクシュアリティに関する女性性を重視するもの。
    3 「女性」でなく「個人」:自分は「女性」ではなく「個人」であると主張するもの。
     4 平等主義:本当の平等主義はジェンダー無関係であると主張するもの。
     5 フェミニズムイデオロギー批判:フェミニズム運動やフェミニズム原理に対する一般的な批判を述べたもの。
     6 男性問題に言及:女性問題だけでなく男性問題もあるにもかかわらず、フェミニズムは男性問題を扱わない点で問題であり、それゆえに自分はフェミニズムに反対するという主張内容のもの。

    先行研究の検討の箇所ですでに示したように、ポスト・フェミニズムはジェンダーを個人的な問題と捉える傾向があることが明らかになっている。そこで、フェミニズムから自分個人を切り離そうという主旨のものを「3 個人化」、フェミニズムに対する批判が主旨となっているものを「5フェミニズムイデオロギー批判」と分類した。例えば、「フェミニズムが女性を犠牲者、男性を加害者とする二分法を強化している」という主張は「5 フェミニズムイデオロギー批判」だが、その二分法による犠牲者の位置に自分を同一化することを拒否する主張(「私は犠牲者ではない」)は3となる。

    4. 分析
    4.1 「フェミニズムに反対する女性」の分類と特徴
     計139人分の写真から、「フェミニズムに反対する理由」は328件集まった(表 - 2)。

    (1)性別役割重視
    良く知られているように、女性役割を重視する立場をとる女性はフェミニズム成立期からつねに存在しており、フェミニズムと対立したり共闘したりしてきた。第一波フェミニズム期には、「母」や「妻」といった女性役割をよく務めることが社会全体の道徳的向上につながるという論理がとられてきたが、2010年代の現在では「女らしさ」や性別役割は、あくまでも自分の私的なライフスタイルの問題として捉えられ主張されていることが特徴的である。
    「フェミニズムに反対する理由」のなかでも「1 家庭生活重視」に分類できるものの具体例として、「私は夫のためにクッキングするのが好きだから」、「仕事から帰ってきたボーイフレンドのために料理を作ることは、私らしくなくなることではないから」、「進化は男女に異なるスキルを与えたのであって、これは男性による強制(male oppression)ではないから」、「私は夫を愛していて、両性の違いを享受(enjoy)すべきだと考えるから」などの主張が見られた。
    「2恋愛重視」に分類できる具体例として、「私は女らしい(feminine)ファッションが好きで、女らしくありたいと思っているから」、露出の多い服装をし、身体の一部を強調したセルフィにおいて「こういう格好をしたときに見てくれる人が必要だから」、「私は男嫌いじゃないから」、「私はレイプサバイバーだが、男性を嫌っていないから」、「パーティで飲んでストレンジャーとセックスするのは無責任ではないし、それはレイプじゃないから」、「後悔するセックスは、レイプではないから」、「自分の男(my man)のために私がセクシーであることを、私は愛しているから」などの主張があった。
    「1家庭生活」、「2恋愛」はともに「女らしさ」や女性ならではの役割を重視するものであるため、あわせて「性別役割重視」と呼ぶことができる。
    第二波フェミニズムは「男は外で働き、女は内を守る」という画一的な性別役割を批判しジェンダーによって束縛されない多様なライフスタイルを目指してきた。これらのフェミニズムの活動を見ながら、性別役割重視の女性たちは、家族のために女性的役割を果たすことに生きがいを見出す価値観や、「女らしく」あることを通した性愛的な関係に幸せを見出す価値観が、フェミニストによって否定・批判されていると思い込み、フェミニズムに反発している。そして、家庭生活や恋愛は自分のライフスタイルに属する個人的なものであるから、他人の口出し無用として、社会的な議論の対象にすること(他者からの批判)を避けようとしていることがわかる――言うまでもなく、フェミニズムは家庭生活における「妻」や「母」の役割を重視するがゆえにそのよりよいあり方についての議論を喚起し、その実現のための運動をしてきた。また、フェミニズムは女性の性的自立と性的解放を進めてきた当の勢力である。これらのことを考慮すれば、フェミニズムが母や妻、女性らしい性的魅力を否定したり、抑圧したりしているという理解は、フェミニズムの多様性を捉えそこなったものである――。

    (2)「個人」主義
    「私がフェミニズムを必要としない理由」のなかで最も多かったのは、自分はフェミニズムが言うような「女性」ではなく「個人」であると主張する「3『女性』でなく『個人』」で、38.7%を占めた。具体的には「私はフェミニズムが言うような犠牲者(victim)ではないから」、「私は自分のチョイス以外の犠牲者ではないから」、「私が抑圧(oppressed)されているように見える?」、「私は自由で幸せだから」、「私はクリティカルシンキングができるし、フェミニズムに私をリプリゼント(represent、代表、表象)してもらう必要はないから」、「フェミニズムは私の声ではなく、私の主張とは異なるから」といったものが見られた。
    フェミニズムは女性を「犠牲者」や「被抑圧者」と捉えるものと理解しており、そのようなフェミニズム理解に基づいて、フェミニズムに対する違和感をつのらせ、「女性」というジェンダー属性を持つ「私」の個人的な実感に基づいて、フェミニズムはもはや無効だと主張しようとしている。
    また、女性のなかで経済的自立を獲得している人も多く、女性差別を受けたことがないと主張する人もいた。「私と夫はお互いに尊敬しあっているし、私が一家の稼ぎ手(bread-winner)だから」、「私は人生における成功のために努力し続ける意志があるけど、それは成功のためにであって、自分のジェンダーを魔法の切り札(刑務所釈放カードget out of a jail free card)として使うためではないから」、「アメリカに生きている私は平等な権利を持っているから。選挙権があるし、同一賃金(equal pay)を得ているし、平等に教育を受けていて、会社も経営できる」、「女性であることが不利だと、私は思わないから」、「自分が人生で成功するために、レッグアップや体毛処理をする必要がないから」――レッグアップは痩身法の一つであるから、この主張は「女性的」な理想の身体を備えていなくても、外見の美しさで女性の人生の成功/不成功が決まるというような女性差別的状況は現代ではなくなったという主張であると解釈できる――といった主張が見られる。
    現代社会ではもはや女性であることによって不利益を被ることはないという信念の表明は、「4平等主義」の主張にも見られる。本当の平等主義(egalitarianism)とはジェンダー無関係であるという主張は多くの人によって繰り返し述べられている。
     3、4、ともに、自分が「女性」というカテゴリーで捉えられることや、「女性」というカテゴリーを強調することへの違和感や拒否感を示し、「女性」なのではなく「個人」だと主張している。したがって、これらを「個人」を強調する「『個人』主義」と呼ぶことができる。

    (3)アンチ・フェミニズム
    フェミニズムの主張内容や、現在のフェミニズムのあり方に対する批判(「5フェミニズムイデオロギー批判」)は、28.3%を占める。「すべての男性がレイピスト(rapist)ではない」、「男性を悪魔化(demonize)する必要はない」といった「男性」一般を批判することへの異議や、フェミニズムは男性嫌いの運動になっているという批判が多かった。ここにはフェミニズムが二分法(dichotomy)を作り出しているという考え方が見られる。フェミニズムが「女性」というカテゴリーを基盤にして議論をすることそのものに対して、反発感を持っていることが見て取れる(8)。
    ここでのフェミニズムとアンチ・フェミニズムの食い違いを整理すると、フェミニズムは、現代社会においてジェンダーに基づく構造的不平等があるがゆえに、「女性/男性」のカテゴリーで議論せざるをえないと考えるのに対して、アンチ・フェミニズムの立場をとる女性たちは、フェミニストが「女性/男性」という二分法を使うことで、男女の敵対関係を作り出していると考えており、それゆえフェミニズムが「女性」というカテゴリーを使うことそのものに対して反感を持っているという論理関係になっている(9)。
    「6男性問題に言及」したのは4.2%という低い数値となった。#WomenAgainstFeminismの盛り上がりには男性権利運動家の活動があったと推測できるが、本稿のコーディング基準を採ることで、男性権利運動の立場からフェミニズムに反対するものをある程度適切に排除することができたとみなすことができる。

    4.2 考察1:「女性であること」をめぐる主張の二極性
    #WomenAgainstFeminismにおいて主張されたフェミニズムに反対する理由を分析すると、一方で、家庭生活や恋愛場面を念頭に置きながら女性役割を楽しみたいとする性別役割重視の主張があり(1、2、19.4%)、他方で、「女性」というカテゴリーで捉えられることに苛立ち、自分はフェミニズムが言うような「女性」ではなく「個人」であると主張する「個人」主義(3、4、47.8%)がある。この二つは、女性役割を楽しみたい(=女性として扱われたい)/女性ではなく個人である(=女性として扱われたくない)という点で相反している。
    この相反する主張は、専業主婦志向の女性とキャリア志向女性への二極化であると説明することはできない。というのも、「私の成功」(3)を重視するキャリア志向と見られる女性が同時に「夫のためにクッキングをするのが好き」(1)、「自分の男のために自分がセクシーであることを愛している」(2)、「男性と女性の役割は異なっている」(1)と主張しているケースがあり(図3のNo.1、 2)、また「母であり妻であることが私の喜びの源泉」(1)と言う女性が同時に「私は犠牲者ではない」(3)と主張しているからである(No.3)。一人の女性のなかに、ジェンダー中立的な待遇の要求と、女性であることを享受したいという希望とが宿っている。
    「女性であること」をめぐる対極的主張(女性役割を楽しみたい/女性ではなく個人である)は、「個人的なものの領域」と「社会的なものの(政治的なものを含む)領域」という区別を導入することによって、論理整合的に理解できる。政治・経済・教育などの社会的なものの領域においてジェンダーによる異なった扱いを受けること――例えば、ジェンダーを理由にした昇進機会の低下や、職場において女性役割を期待されること――は拒否するが、家庭や恋愛などの個人的なものの領域においてはジェンダーの享受――具体的には女らしさ(femininity)や女性役割(gender role)を通した自己実現――を主張していると整理することができる。
     つまるところ、彼女たちは女性的魅力を追求し「女らしく」生きていても、女性であるという理由で差別されないような社会の実現を求めているということが見えてくる。そして、この理念そのものは、フェミニズムの側も支持し共有することができるものである。

    4.3 考察2:現代の女性の生きづらさとその背景をなす社会構造のジェンダー非対称性
    #WomenAgainstFeminismの女性たちは、ジェンダー平等を望ましいものとし、現代社会ではある程度のジェンダー平等が実現しているという現状認識を持つがゆえに(3、4)、それゆえもはや「女性」という集合的アイデンティティに基づいた集合的運動は必要ないという立場をとっている。本稿2.3で提示したジョーダン(2016)の定義に基づいて、#WomenAgainstFeminismの女性たちはポスト・フェミニストだということができる。彼女たちは、第一に、現代社会ではある程度のジェンダー平等が実現しているという現状認識(3、4)、第二に、性別役割を重視するという主張傾向(1、2)のこの二点において、フェミニストとは異なっていると考えており、フェミニズムに対する敵対的態度を隠そうとしない。
    しかし、顔出しで真剣にフェミニズムを批判する彼女たちの主張を詳細に検討すると、ジェンダー平等が達成されたという現状認識を持つ「女性」が、いまなお直面している生きづらさが浮かび上がってくる。「女性」という集合的アイデンティティに基づく問題など存在せず、したがってフェミニズムは不要だという立場をとるポスト・フェミニストにとって、本稿の読解は不本意なものかもしれないが、彼女たちの主張は、集合的な現代の女性が直面している問題を指し示している。
    それは、恋愛や家庭生活において評価される能力や魅力と、社会的なものの領域で要求される能力や魅力とが、男性の場合よりも女性においてより乖離しているという問題であり、このような社会構造上のジェンダー非対称性がもたらす生きづらさである(同様のテーマを論じたものとして、山田昌弘『モテる構造:男と女の社会学』(2016)がある)。
    恋愛やパートナー選択の場においては、性的関係において資源となる性的魅力(sexual attraction)やそれに付随する性別役割(sex role, gender role)を強化することが、女性主体にとっての合理的戦略となる。しかし、経済・政治領域におけるリーダーシップの発揮や主導権掌握のさいに、「女らしさ」や女性的魅力は逆機能となる(例えば、女性らしい「優しさ」がリーダーとしての「威厳不足」として認識される、など)。また、既存の性別役割を積極的に果たしたり女性的な魅力を強化したりすることは、職場などにおける女性ステレオタイプに基づいた処遇やセクシャル・ハラスメントを誘発しやすくなる点でも、働く女性にとって女性らしさを強化することは非合理的戦略となる(10)。
    このため、女性は個人的なものの領域と社会的なものの領域の両領域を、女性的魅力の強化もしくは抑制のいずれかの一貫した戦略によって生き抜くことができない。女性的魅力の強化は、恋人獲得において役立つが職場において不要なトラブルを引き起こしやすくなり、女性的魅力の抑制は、職場でそつなく仕事をこなすことに役立つが、恋人獲得機会を減らす。女性は、両領域を往復するさいの切り替えタスクを、男性と比較した場合、より多く負っている。
    ポスト・フェミニストたちは、社会構造上のジェンダー非対称性から発するこのタスクを、個人的に課せられた問題とし、個人的な努力によって対処しようとする。例えば、アンジェラ・マクロビー(2009)がポスト・フェミニストの典型として論じた『ブリジット・ジョーンズの日記』(11)の主人公ブリジットの戦略は、女性的魅力を高めることで恋人と職業的成功の両方を手に入れようとするというものである。ポスト・フェミニストたちは女性が現代社会でなお直面している問題(個人的なものの領域と社会的なものの領域で要求される魅力や能力の乖離)に対して、個人的に対処できると信じ、個人的に対処すべきだと考え、その結果、女性的魅力を強化するという方向性へと動き出している(hypersexual culture(Walter 2010))。だが、それは、肌露出の程度や、ボディラインの出具合、メイクの華やかさなどに関して日々神経質に調整し続ける営みとなるだろう。

    5. まとめ
    2013年から2014年に生じた#WomenAgainstFeminismに参加した女性たちは、外見から判断する限り、比較的若い世代に偏っている。これらのフェミニズムに反対する若い世代の女性の主張を分析すると、彼女たちは現代社会ではある程度のジェンダー平等が達成されたという現状認識を持っており、現在ジェンダーが問題になるのは家庭生活や恋愛といった個人的なものの領域においてのみであると捉えている。そのため、ジェンダーの問題は個人的な問題として捉えているということがわかった。
    性別役割を重視する女性たちは、その価値観がフェミニストによって批判されていると思いこんでいるがゆえに、自らの家庭生活や恋愛を過度に「個人的なもの」として囲い込み、他人からの口出しをシャットアウトしようとする。ジェンダーの問題の個人化、すなわちジェンダーに関する問題を個人的に対処すべき問題と見なす傾向が確認できる。
    ジェンダーの問題を個人化し、個人の責任で対処すべき問題と見なす傾向は、新自由主義政権が進める「個人化」と共振するものでもあり、今後とも注目と検討が必要であると考えられる。

    【注】
    (1)社会学者ギデンズをブレーンの一人に迎えたトニー・ブレアがシャドー・キャビネットの首相になるのは1994年、政権を獲得するのは1997年からである(アメリカのクリントン政権は1993-2001年)。ニュー・レイバー政権に対するフェミニストの期待と失望については多くのフェミニストが書いている。マクロビーは「私は、1997年のニュー・レイバー政権に対しても楽観的すぎた。私は、トニー・ブレアは女性の問題をサポートし、政策イッシューとキャンペーンにフェミニストと一緒に取り組むものと思っていた。ニュー・レイバー政権初期において、いわゆる第三の道と呼ばれるものに対して希望を持っており、この政権がフェミニストに対して敵対的だとは想像すらしなかった。しかし実際には、この政権は、ワークライフバランスといったアイディアを伴ったより近代的な自由を代替物として、フェミニズムへの反動やフェミニズムの衰退(undo)を求めたのである。」(McRobbie 2009: 5)と書いている。そのほか、Natasha Walter(2010: 8)なども参照。
    (2)ここでマクロビーが分析対象とするのは『ブリジット・ジョーンズの日記(Bridget Jones's Diary)』(1996年ヘレン・フィールディング原作小説、2001年に映画化)である。この映画はその後世界的ヒットとなり、「チックリット」と呼ばれる映画ジャンルの先駆けとなった。
    (3)CBSニュース世論調査によれば、「あなたは自分自身をフェミニストだと考えますか(Do you consider yourself to be a feminist or not?)」という質問に対し、「はい」と答えた人の割合は、1992年に21%、1997年26%、1999年20%、2005年24%、2015年38%となっている(「CBS news」HP内のSean Alfano による2005/10/22の記事”Poll: Women's Movement Worthwhile”
    https://www.cbsnews.com/news/poll-womens-movement-worthwhile/ 2018/11/5閲覧。および、同ホームページ内Alexander Tin による2018/8/22の記事”More millennial women are "feminists," though overall enthusiasm for the term remains low”
    https://www.cbsnews.com/news/more-millennial-women-are-feminists-though-overall-enthusiasm-for-the-term-remains-low/ 2018/11/8閲覧)。
    (4)ジョーダンは、イギリスで最もよく知られている父親権利運動(father’s rights group)である「(Real)Fathers 4 Justice 」(RF4J、2002-)のメンバー9人(男性8人、女性1人)に対するインタビュー調査に基づいて、この概念化を行っている。
    (5)例えば、『デイリー・ドット(The Daily Dot)』におけるベス・エルダーキン(Beth Elderkin)の2014年8月3日の記事。エルダーキンは、これらの投稿を「平等主義(egalitarianism)」と「アンチ・フェミニズム(anti-feminism)」の二つに分けて分析している
    ( https://www.dailydot.com/irl/women-against-feminism-tumblr/ 2018/6/7閲覧)。
    (6)タンブラー「Women Against Feminism」
    ( http://womenagainstfeminism.tumblr.com/ 2018/8/30閲覧)
    (7)『ニューヨークオブザーバー(The New York Observer)』誌の2014/7/30の記事
    ( https://observer.com/2014/07/women-against-womyn-first-wave-second-wave-third-wave-and-now-three-steps-back/ 2019/2/3閲覧)。
    (8)「フェミニズムは、ミソジニーで混乱していて、それはミソジニーと同じくらい悪い」や「フェミニストが促進したカジュアルセックスによって女性が苦しんでいる」といった、現在の女性をめぐる混乱状況(アノミー)をすべてフェミニズムのせいとする、いわゆる「フェミニズム悪者論」も散見される。
    (9)フェミニズムイデオロギーに対する批判は、この他にも、フェミニズムによって自分は救われなかったという主張(「私は、フェミニズムのアイディアにフィット・イン(fit in)しなかったことをずっと恥じてきた」)や、妊娠中絶、家父長制、レイプカルチャーといったフェミニズム的争点に関するアンチ・フェミニズム的立場からの意見主張なども見られた。
    (10)例えば、すでに社会心理学では「現代的なステレオタイプ」研究領域において、マイノリティが相互行為場面において固有の解釈上の多義性――ここでの例を用いるなら、女性だから昇格できないのか、能力・実力・業績不足で昇格できないのか、自分をバックアップしてくれる有力者との人脈形成に失敗したから昇格できないのか――に陥ることが心理的ダメージになっていることが、明らかにされている(「帰属の曖昧さ」(Fiske)、高橋(2017)も参照)。
    (11)注(2)を参照。

    【文献】
    Aronson, Pamela, 2003, “Feminists or “Postfeminists”? : Young Women’s Attitudes toward Feminism and Gender Relations”, Gender & Society 17(6):903-922.
    Bennett, W. Lance, & Segerberg, Alexandra, 2012, “The Logic of Connective Action: Digital media and the personalization of contentious politics”, Information, Communication & Society, 15(5):739-768.
    Boxer Sarah, 1997, “One casualty on the women's movement: Feminism”, New York Times,14,December. (https://www.nytimes.com/1997/12/14/weekinreview/ideas-trends-one-casualty-of-the-women-s-movement-feminism.html 2018/11/5閲覧)
    Elaine J. Hall & Rodriguez, Marnie, Salupo, 2003, “The Myth of Postfeminism”, Gender and Society, 17(6):878-902.
    Faludi, Susan, 1991, Backlash: The Undeclared War Against American Women, Crown: New York. (=1994, 伊藤由紀子・加藤真樹子訳『バックラッシュ―逆襲される女たち』新潮社. )
    Fiske, S. T. & Taylor, S. E., 2008, Social Cognition: From Brains to Culture, New York: McGraw-Hill.(=2013, 宮本聡介・唐沢穣・小林知博・原奈津子編訳『社会的認知研究――脳から文化まで』北大路書房.)
    Fraser, Nancy, 2013, Fortune of Feminism: From State-Managed Capitalism to Neoliberal Crisis, Verso: London.
    Gerbaudo, Paolo, 2012, Tweets and the Streets: Social Media and Contemporary Activism, Pluto Press: London.
    Giddens, Anthony, 1994, Beyond Left and Right: Future of Radical Politics, Polity Press: England. (=松尾精文・立松隆介訳, 2002, 『左派右派を越えて:ラディカルな政治の未来像』而立書房.)
    ――――, 1998, The Third Way: the Renewal of Social Democracy, Polity Press: England. (=1999, 佐和隆光訳『第三の道――効率と公正の新たな同盟』日本経済新聞社.)
    Gill, Rosalind, 2007, “Postfeminist media culture: elements of a sensibility”, European Journal of Cultural Studies, 10 (2):147-166.
    ――――, 2017, “The affective, cultural and psychic life of postfeminism: A postfeminist sensibility 10 years on”, European Journal of Cultural Studies, 20(6):606-626.
    Heywood, Leslie L., 2005, The Women's Movement Today: An Encyclopedia of Third-Wave Feminism, Greenwood.
    Jordan, Ana, 2016, “Conceptualizing Backlash: (UK) Men's Rights Groups, Anti-Feminism, and Postfeminism”, Canadian Journal of Women and the Law, 28(1):18-44.
    菊地夏野, 2016, 「「女子力」とポストフェミニズム:大学生の「女子力」使用実態アンケート調査から」『人間文化研究』25:19-48.
    McRobbie, Angela, 2009, Aftermath of Feminism, SAGE Publications: London.
    三浦玲一, 2013, 「ポストフェミニズムと第三派フェミニズムの可能性:『プリキュア、『タイタニック』、AKB48」, 『ジェンダーと「自由」:理論、リベラリズム、クィア』彩流社:59-79.
    Renzetti, Claire M., 1987, “New wave or second stage? Attitudes of college women toward feminism”, Sex Roles, Volume 16, Issue 5-6:265–277.
    Sigel, S. Roberta, 1996, Ambition and Accommodation:How Women View Gender Relations, The University of Chicago Press: Chicago.
    高橋幸, 2017, 「現代的な「女性」ステレオタイプ」第90回日本社会学会報告原稿.
    竹村和子, 2003, 「思想読本10“ポスト”フェミニズム」作品社.
    田中東子, 2012, 『メディア文化とジェンダーの政治学:第三派フェミニズムの視点から』世界思想社.
    山田昌弘, 2016, 『モテる構造:男と女の社会学』筑摩書房.
    山口智美・斉藤正美・荻上チキ, 2012, 『社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』勁草書房.
    Walter, Natasha, 2010, Living Dolls: The Return of Sexism, Virago Press: London.


    【謝辞】本研究は、科学研究費基盤研究(C)「新自由主義・新保守主義下でのジェンダー再編の理論整理および日英韓比較研究」(JP15K01928)の助成を受けたものです。

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  • 奪われた「言葉」と「記憶」を取り戻すためのフェミニズム ~セクシュアルアビューズサバイバーの当事者研究~ 2018/05/19

    2018/05/19

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    被虐待経験や母との関係を語る文章を目にすることは珍しくなくなった。やっと、という思いである。被害という言葉は加害を告発するという意味が含まれているはずなのに、窃盗や交通事故の被害とは異なり、DVや性暴力は被害者がスティグマタイズされてしまう。被害もまたジェンダー化されるために、多くは語られず、なかったかのように被害者は生きなければならない。#MeToo!のムーブメントが静かに広がっているのは、あの華やかなハリウッド女優たちも自分と同じ経験をしていることを知り、国を超えた「仲間」を得ることでカムアウトする勇気をもらう女性が多いからだろう。 しかし性虐待(近親姦)被害は、その背景やプロセス、構造の複雑さから、連続してはいるものの同じ平面上で語ることは困難だ。「記憶」が問われるからである。トラウマ記憶に関しては研究が進んでいるが、定義される以前に意味不明の症状(著者は摂食障害を発症した)や、奇妙な体感が先駆する。何故なのか、何なのかがわからないままフラッシュバックが起きる。性虐待・トラウマと命名できるまでの混迷の深さ、自己定義してから始まる新たな混乱と怒りは、しばしば当事者がそれを語ることを妨害する。しかし言葉がなければ、新たな語り直しがなければ生きていくことはできない。このような切迫感が本論のいたるところに満ちている。「失われた記憶が蘇る度に、連なりが途絶え、私は自分を作り直さなければならなかった」というくだりは、胸が痛む。 これだけ多くの言葉が日々ネットやメディアを通して溢れているのに、性虐待被害者がサバイバルするために必要な言葉を与えてくれたのはフェミニズムだけだった。「この当事者研究の目指すところは、フェミニズムの言葉によって自分を作り直した軌跡を辿ること」なのである。これは研究の原点を私たちに突きつける。客観性やエビデンスの持つ価値を否定するものではないが、ひとりの人間が生きていくためにどうしても必要な言語的活動はすべて研究と呼べるのではないか。本論は、既成の心理学や精神医学が取りこぼしてきた(もしくは僭称してきた)被害者像を当事者がフェミニズムの言語を用いて作り直し、しかもそれは仲間とともに行われることを示した。このような当事者研究と、客観性と論理性を旨とする既成の研究とを架橋するのが研究者の役割ではないだろうかとさえ思う。 もっとも秘されタブー化された性虐待被害者たちが、生き延びるためにほかでもないフェミニズムを必要とした。本論は当事者学としてのフェミニズムという原点を明確に示したものだろう。著者の勇気を称えたい。

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