WAN女性学ジャーナル
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タイトル | 著者名 | 論文概要 | カテゴリ | |
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博士論文データベースを通して見る女性学/ジェンダー研究の40年 | 内藤 和美 | 女性学・ジェンダー研究(以下、WS/GSとする)の知を集積して活用に供する資源に1つを加えることを目的に、また、そこに日本のWS/GSのアイデンティティが蓄積されていくようにとの意をも含んで構築し、2012年8月の公開を経て個人で管理運営してきた「女性学/ジェンダー研究博士論文データベース」(以下、WSGSDDBとする)は、2017年9月に、認定特定非営利活動法人ウィメンズ アクション ネットワークWomen's Action Network(以下、WANとする)に移管された。 本稿では、823本(2018年7月末現在)のWSGSDDB登録論文の情報を切り口に、日本のWS/GSの40年間の蓄積を示すとともに、WAN移管によってて共同化・公共化が進んだことによるデータベースの今後の活用可能性の拡大について記したい。 |
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アトピー性皮膚炎は母親の責任か? 2018/05/19 | 奥津 藍子 | 雨宮のエッセイにおいて、患者自身は症状によって精神的に追い詰められていたが、症状のない母親も子どもと同様に、疲れ果てていた。なお、こういったことは、雨宮らに限った話ではなく、アトピー性皮膚炎をもつ子と母をめぐっては「よくある話」である。アトピー性皮膚炎という病いを考える際には、当然「当事者」である患者自身が注目されがちだが、母親たちはその陰で、子どものケアを一身に引き受けている。彼女たちはそれぞれ壮絶な経験をしており、単なる「患者の母親」というカテゴリーには収まりきらないほどの強い当事者性を持っている。そこからは子どものケアを強迫的に遂行している様子が伺えるが、母親たちをこれほどまでに突き動かし、追い詰めるものとは何だろうか。アトピー性皮膚炎の子をもつ母親たちが抱える困難やストレスの背景にあるものを、今一度見つめ直す必要があるだろう。 本研究は、一般に「アトピー本」と呼ばれる啓蒙書の言説分析を通じて、アトピー性皮膚炎がいかに母親の責任としてジェンダー化されるかを明らかにする試みである。 |
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奪われた「言葉」と「記憶」を取り戻すためのフェミニズム ~セクシュアルアビューズサバイバーの当事者研究~ 2018/05/19 | 荒井 ひかり | 本論は、当事者研究として、性的虐待を受けた経験を、フェミニズムの言葉により定義し直し、自己を取り戻していく記録である。 上野千鶴子、信田さよ子による対談『結婚帝国』を主題とし、『PTSDの医療モデルへの回収以外の道である、言語化、理論化の方法での自己申告』を実践する。 これにより、自らの経験を安全な場で語ることが、心的外傷からの回復の道であるということを示したものである。 ABSTRACT Feminism to Recover Divested Speeches and Memories This article examines how a sexual abuse survivor has learned to use the vocabulary of feminism to redefine her experience and reconstruct herself. It is also a document of toujisha kenkyu 当事者研究, which is known among Japanese feminists as experience-based research conducted by and for the toujisha: the concerned party. Mainly referring to talks between Chizuko Ueno and Sayoko Nobuta in a book entitled Kekkon Teikoku: Onna no Wakaremichi (The Empire of Marriage: Women’s Dividing Path), it describes an attempt not to locate oneself in a medical model of PTSD but to practice “self-assessment by way of verbalization and theorization.” It thereby suggests that a self-narrativization of one’s own experience in a safe place could be a way to recover from PTSD. |
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竹村 和子――友情およびアメリカ研究と日本研究のクィア化について 2018/05/19 | Keith Vincent | この論文を本号に収容するにあたり,竹村の仕事を振り返り,彼女の仕事をさらに読む機会だけでなく,日本人アメリカ研究者と米国人日本研究者にはどのような共通点があり,フェミニズムとクイア理論がそうした共通項を表現するのにどう役立ちうるのか,広範に考える機会を与えられたことに感謝している.竹村の目を通して,米国におけるフェミニズムとクィア理論の歴史の様々な側面とあらためて邂逅し,そして多くの場合それらを初めて知ることとなったことも喜びでした.たとえば,彼女の2012年に出された『文学力の挑戦』のおかげで,私はルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』がクィアなテクストとして読めることを今では知っています.また,ケイト・ミレットの1970年の古典作品でフェミニスト文学批評の著書『性の政治学』が,ジャン・ジュネのジェンダー体制に対する姿勢を好意的に書いている章で終わっていることや,D・H・ロレンスのホモフォビアとミソジニーについてのミレットの分析が,15年後の『男同士の間』のイヴ・コゾフスキー・セジウィックの仕事を先取りしていることも学びました.アメリカの反‐知性主義に関する秀逸な章では,19世紀の「ノウ・ナッシング党」に立ち戻りながらリチャード・ホフスタッターの古典作品を援用し,ジョンズ・ホプキンス大学拠点の学術誌『哲学と歴史』が1998年にジュディス・バトラーに与えた「悪文大賞」授与の状況を説明しています.その章で彼女が指摘しているように,バトラーよりずっと難解な文章を書くポスト構造主義理論家たちはいくらでもいたし,マスメディアの耳目を引けなかっただけで他にも選考された受賞者は何人もいました.これら二つのことは,バトラーの文章の伝説的な難解さというよりも,むしろ古き良きアメリカの反‐知性主義に根深く命脈を保ち,ジェンダーや性の規範を堅牢に防御している『常識』という概念にそれが突きつけた挑戦こそが問題であったことを示唆しています. |
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