北イタリア・ピエモンテ州アルバ在住で人と地域と食文化や環境や営みを繋ぐGEN(げん)を主宰する齋藤由佳子さん。 2023年2~3月に彼女が企画した海外からの日本ツアーの内容を紹介した前編に続く後編です。東京生まれの東京育ち、武蔵野美術大学を経てイギリスの大学に4年間通い、前職はリクルートだったという齋藤さんが、どんな経緯で、今の仕事を始めることとなったのか。またどうしてイタリアへ行き暮らすこととなったのから伺う。
「大学4年間を過ごした武蔵野美術大学は、 今思えばとてものどかでいい場所でしたが、 社会との関わりが密接でないような気がして。アートは社会の連動の中で生かされるものですから、このままいっていいのかなっていう気持ちになってしまい、ここには居場所がないという風に感じてしまったんです」と齋藤さん。
そこで卒業後はロンドンへ。 「アートが社会の中心にあるような都市ですから刺激を受けましたし、思いきって専攻を一からやり直そうと。それまでは受験戦争に勝つために専攻を決めたようなところもあって、工芸工業デザイン学部に入った後も自分にとって何がやりたいのかで定められませんでした。イギリスではファンデーション、基礎コースから入り直しました。それで写真学部に行き着きました。武蔵野美術大学でも映像学科を受けているほど元々映画が好きだったのです。物語が好きなんです。それで映画と同じくストーリーを表現できるのは写真と思って写真学部に入り直しました」。
ところが実際に学ぶのは写真論、写真を通して社会にどう課題や視点を伝えるのかというコースだったいう。
「私が思っていたテクニカルな写真技術を学ぶコースではなく、哲学書とかロラン・バルトやミシェル・フ―コ(フランスの哲学者)などを読んで社会の歪みや課題を写真に表すという、そんな難しいコースでした。物の見方はここで少しは培われたような気がしました」
イギリスの大学を経て、リクルートに入社
「そのまま大学院に進学しようとも思ったのですが、一度日本の会社でちゃんと働きたいとリクルートに入社しました。配属は制作局で広告制作のクリエイティブ職、アート系の採用だったのです。人材募集広告の紙面を作るような部署で、『10年ぶりの新人』とかですごく可愛がっていただいた。今思うとラッキーでしたね。その当時リクルートの業績が良くなくて新卒採用がなかった。私が入社した2000年は中途採用ばかりで同期はたった5名ほど。翌年の2001年は100名ほどの採用でした」
リクルートでは、中小企業を中心にクライアントの企業の持ち味や仕事の意義上手く引き出し、その魅力を募集広告で紹介することを手がけた。やりがいのある仕事だった。
「この時の人材系の仕事は今の仕事にとても通じています。自分の魅力が客観的に上手く言語化できない中小企業のお手伝いをする。これまでとは違う側面を引き出したり、新たな切り口を考えて、本当に会社に来て欲しい人ってどういう人ですか、みたいなところをコミュニケーションしたりしながら考える。やりがいを感じた仕事でした」
しかしリクルートでの仕事は次第にインターネットが中心になり、アプリやゲーム開発となっていったことで関心が薄れていく。そんななか、食という新しい出会いが生まれた。
ナパバレーでワインやワイナリーに出会う
「新規事業開発ではアプリとか今でいうゲームの開発するような部署に行きました。リクルートは、新しい分野に先進的に取り組む感度の高い会社だと思いますが、根本には社会を幸せにするという思いであふれたいい会社だと思っていました。でもネットの世界に入って、人とのリアルな繋がりや関わりや発信がどんどん削られていく。特にアプリ開発のような事業ではゲームのような、若い人がどんどんのめり込んで他者と関わる時間を奪っていくことをやっていて、本来のリクルートらしさとは逆じゃないかと思い、自分は気持ちが離れてしまいました。
その後結婚したこともありまして、リアルな五感を使う本当にもっとタンジブル(Tangible=実体がある様)なことやりたいと思いました。リクルート時代にアメリカのナパバレーに1年間駐在していた時に、ワインに出会い、ソノマの最高の葡萄園で自然の中で食べたり飲んだり。そういう体験をそこで初めてした感動を思い出しました。」
ナパバレー駐在中は、サンフランシスコでブルーボトルコーヒーに出会ったり、農家のオーガニックマーケットでは、小さな農家が見たこともないような野菜や食べ物を売っているという日常風景に出会う。「今の食の活動に通じるような体験でした」。一年のアメリカの滞在が齋藤さんを食の世界に惹きつけた。
リクルートを退社するのは2010年。
「子供が出来たというのも大きいのですが、食べ物への関心は増すばかりで。食べ物がその人の豊かさや感性、感度とかに繋がっていることも感じていました。食べ物の好き嫌いが激しい人って、やはり人との付き合いでも寛容でない、ちょっとぎこちなくなりがちということもリクルートの仕事の中で観察して、『食と性格は繋がっているもんだな』と自然と学んだりして(笑)。 『これじゃないとだめ』という偏屈さより、いろんなものを享受できる多様さがあった方が豊かな人生に思います。だからそのためにも子供の食を通じて味覚の豊かさを広げるにはどうしたらいいんだろうと思っていました。」
2009年、リクルート在職中、当時の夫がレストラン業を行っており、その系列としてワインの販売会社を齋藤さんが立ち上げ、代表となったことも思いに後押しをした。
「リクルートでは私の在職当時から副業を歓迎していたので、会社員と並行しての起業です。レストランに来るお客様から、気に入ったワインを自宅用に注文できないかという要望があって、ワインのプライベートコンシェルジュのような会社を『ワインファンド』として立ち上げました。お客様は100名のファウンダーで、まずワインセラーをご自宅に送り、その方の味覚とライフスタイルに合わせたワインをソムリエが見繕ってパッケージして定期発送する。今で言うサブスクリプション(subscription/月または年単位でお金を払うシステム)の先駆けのようなビジネスですね。そんな言葉はまだ浸透してなかったので『富山の薬売りモデル」と言っていました。富山の薬売りは、先に薬箱を送るじゃないですか。そのワイン版みたいなものですね。」
2011年3・11東日本大震災が人生を大きく変える
ワインのプライベート販売の顧客の中心は東京在住の海外の富裕層。ところが2011年3・11の東日本大震災で事業がたちゆかなくなる。震災で大使館から避難勧告が出て日本駐在の外国人客が帰郷して一気に離れただめだ。会社の再開は見込めない状況だった。
「今は三人子供がいますが、当時は二人、まだ3歳、4歳の子供の二人の母親でしたから食への影響もずいぶん考えました。何が起こっているかわからない。後から福島原発でメルトダウンが起こっていたことがわかったわけです。ちょうどその爆発が起こった日に新幹線に乗って子供を連れて京都の方に向かい、東京を離れました。様子をみてなかなか東京に帰らなかったので当時の夫には『避難なんてもったいない』と怒られました。他にもいろいろと価値観の違いが浮き彫りになり、離婚することになりました。どうしていいかわかりませんでしたが日本を離れることにしたのです。」
リクルートを退職直後に3・11の東日本大震災、その直後に離婚。激動の中で、新たな暮らしの手がかりを探すこととなる。
「ありがたいことにリクルートを辞めたすぐ後だったので手付かずの退職金が残っていました。今すぐに再就職しなくてもなんとかやっていける。次の10年何をやるか。3年間を自分に許して、新しいことに取り組もうと。でも東京のど真ん中に暮らし、賃貸のワンルームマンションで子供二人のシングルマザーとして保育園に通わせながら新しい道を探すイメージがわかなかった。そこで学生時代を過ごし土地勘もあるロンドンに行ったんです」
しかし当時はオリンピックなどで影響もあり、家賃も物価も高騰していたという。
「3年無職で子育てするとなると、なるべく物価の安いところに行かねばと思っていました。たまたま日本人の友人が MBA(経営学修士)を取るためのビジネススクールに受かって ブタペスト(ハンガリーの首都)に行くと言うので、インターネットで見てみたらインターナショナルスクールの授業料が日本の1/3か1/4。物価も安く暮らしやすい。これならなんとか私も子供たちに国際的な環境で学べるかもしれないと思い、ハンガリーに行くことにしました」
子どもとハンガリーへ移住。予定では3年計画で新たな仕事を見つけ身を建てる計画だった。
「食に関わる仕事をしようと決めていました」。
そのとき出会った本が、フランスのジャック・ピュイゼ博士が味覚教育理論を紹介した『子どもの味覚を育てる―ピュイゼ・メソッドのすべて」。
日本でも翻訳されているその本には、人は食を、見た目・香り・味わい・触感・音の五感を通して食べて味わうことと、その学びの手法が具体的に紹介されていた。
「「五感の言語表現を通じて、感性の豊かさを学ぶことが個性や表現に繋がり、豊かな味覚と感性は子供のときに始まることを知りました」。
「ジャック・ピュイゼ博士による、“五感を駆使して官能を目覚めさせる味覚のワークショップ”の存在を知り、『味覚の一週間」という講座がフランスの学校にあることを知りました。ところが、博士の研究所の案内を見ると入学資格として、サイエンスの学部卒が必要とあった。私は、大学はアート系だったのでだめだなと。味覚教育をやるにはサイエンスを学ぶことからは免れないのだなと覚悟しました。」
味覚の講座を学ぶために、ハンガリーの大学の医学部へ入学
そこで齋藤さんはハンガリーで医学を学ぶことを決意。
「食の延長で、体と健康に興味があったので医学メディカルヘルス領域で何かないかなと探し始めたところ、ハンガリーは国立の医学部が有名で学費も安く、学生になればビザも取れると。そこでブダペストの大学の医学部準備コースに入ったんです。日本の医学部と違って入るに優しく出るに難しい。人生の転換期ですし、どうせなら今までやったことがない、苦手だったことにあえて挑戦しようとしてのチャレンジです。生物学とか化学とか初めて学ぶことばかり。18歳くらいの学生の中に三歳、四歳の子持ちのおばちゃんが混じって、必死で徹夜しても毎週試験に落ちまくるような体験をしました。1年頑張って、やっぱり医学はちょっと無理かもなと思うようになりました(笑) 」
子供たちは現地のインターナショナルスクールに入れた。
「いろんな学校を見に行きました。インターナショナルスクールにも色々あって、イギリス系とかドイツ系とか小さな私立の幼稚園とか。サマースクールなどの機会に色々と試しに通ってみました。そこで幼児教育にも興味を持ちました。既存の学校にあまりない、五感を使ったワークショップを行う保育園もあった。子どもが感性に目覚めるような、独自のカリキュラムのプログラムもやれるんだということを子供たちと一緒に行って学び面白かったです」
ハンガリーの生活では、新たな発見もした。 「ハンガリーは農業国家なんです。食もとても豊かで。ブダペストは都会でありながら畑が身近にある街でした。当時昼間は学校に通っていたので『イルデコ』というおばあちゃんのベビーシッターさんに子育てを支えて頂いていたのですが、この方が本当に豊かな暮らしの創意工夫に溢れていて。食事は自分の家の菜園でできた作物で料理したり、普通なら捨ててしまうもので美しく家を飾ったり、裁縫から何から完璧で、毎日が学びの連続。その人と一緒に生活する事が子供にとっても私にも何よりも教育になりました」
味覚の授業を学びたいとイタリア食科学大学に入学
ブダペストの大学に入ったものの自分には医学ではなく、心理学かカウンセリングとかが向いているのではないかと試行錯誤していた斎藤さん。そんなときに見つけたのがイタリアのスローフード・インターナショナルの創始者が立ち上げたイタリア食科学大学の存在だった。当時は、スローフードが何かもよくわかってはいなかったが、食を英語で学べ、学歴不問で受験可能ということから入学を決意する。ブタペストからイタリアへは飛行機で1時間。マスターコースは一年の短期プログラムで英語で学べる。イタリアの大学院を卒業したらいずれブタぺストに帰って来るつもりで、イタリアに行き、イタリア食科学大学院に正式に入学。 食のコミュニケーション学を選択した。子供の教育や五感教育を学びたいと思っていたからだ。
「イタリアへいって、その時初めて『テッラ・マードレ(Terra Madre=母なる大地)=生産者会議」にも行って、それこそジャック・ピュイゼ博士が提唱しているような味覚の講座をシェフたちが子供たちに教えているシーンとかを見て、私が求めているのがここにあったと興奮しました。」
「テッラ・マードレ」は、イタリア・スローフード・インターナショナルがコーディネートする会議で、食材の祭典として1998年から偶数年に実施されている「サローネ・デル・グスト Salone del Gusto」ともに、ピエモンテ州との事業として州都トリノで実施されている。ここにはイタリア国内はもちろん、国外などから、地域の伝統に根差した生産者、料理家、ジャーナリストなど多くの人が集まり、それぞれの地域の食の紹介、持続社会に繋がるコミュニケーションの場や味覚ワークショップなども行われる。
イタリアでの子連れ学生生活には様々な困難もあった。
「イタリア食科学大学に子連れで入学した初の学生でした。大学のあるポレンツォという街に住むことにしましたが、ビザを取るところから大変でした。 日本人がハンガリー経由でイタリア在住ピザを取るなんて前代未聞。どこに問い合わせても不可能と言われました。でも日本に帰るわけにもいかない。 実はその頃、離婚調停も続いて精神的にも参っていましたが、たまたま奇跡のようなつながりで、在ハンガリーイタリア大使館に友人がいる知人が「イタリア大使を知っているから話してあげる」と紹介してもらえて、なんとかイタリア在住への道が拓きました」。
ミラノ万博の食の博覧会を契機に食文化を繋ぐ会社を起こす
日本人の子供がポレンツォの地元の学校に通うというのも初めてだった。全くイタリア語ができないまま、子供たちは幼稚園と小学校に入学。大学に近いからと住まいを決めたポレンツォはお店もない“限界集落のような場所”で、学生のほとんどは便利な隣村に住んでいた。
土日はバスもなく、車も持っていないので不便。大学のカリキュラムが始まってみると、食の生産現場に足を運んで学ぶ「スタージュ」と呼ばれる研修旅行が頻繁にあり、イタリア国内や海外も含めて1週間、ときには10日間以上、1年間に7,8回も家を離れなければならなかった。ときには、日本から母親に来てもらい子どもの世話をしてもらったり、ベビーシッターを雇ったりしたが子どもが熱をだし授業にも行けないこともあった。
「成績は気にせず、今を乗り越え、なにかを掴む」と、自分を奮い立たせていたという。なんとか卒業した翌年、ミラノで食をテーマとした初めての国際博覧会が行われ、「関連するプロジェクトを手伝って欲しい」と日本での知り合いから話が持ち込まれる。
さらに2014年、ミラノで会社を登記することが出来たのは、ミラノ万博を機に、外国人起業家支援の制度ができたおかげだった。齋藤さんは、この制度(イタリア政府公認ソーシャルイノベーションスタートアップ制度)を利用した第1号外国人起業家となった。
「法人を立ち上げたときに協力してくれたのが今の主人でした。当時、まだ彼はイタリア食科学大学の学生で、『卒業後どうしようか』と言っていたので『私と一緒にやる?』と。私がイタリア語ができないなか手伝ってくれました。あともう一人、やはり食科学大学の卒業生でマレーシア人のジャスティンという夫の同級が『イタリアに残りたい』というので参加してもらい、会社を設立しました」
ミラノ万博にむけてすぐに日本企業から仕事の依頼があったものの、企業のプロモーションやビジネスの場を求める企業側と、大学で学んだ「味覚の授業」や感性や文化を育み学びの場を提供したいと考えていた齋藤さんたちとの考えや方向性が一致せず、そのタイミングではビジネスは実現しなかった。
が、斎藤さんたちはめげることなく、NPOスローフード協会やイタリア食科学大学と連携して、さまざまな繋がりやプロジェクトを進めていく。
NPOスローフード協会は、ピエモンテのブラに事務所があり、150人が働き、国内4万人、海外を含めると10万人の会員をもつ食最大のNPOで、様々な食のプロモーションを手掛ける。別会社で、出版部、大学、コンサルタント部などがあり、州政府や自治体と連携した食の祭典も行っている。
創立の立役者であるカルロ・ペトリーニ氏は「画一されたグローバルな食品がまん延するなかで、われわれは、多様性のグローバルゼーションを目指す」と宣言した。また「味覚は文化である」とも。地域性のある味こそ、守るに値する文化であるとして、地域の食材の調査・紹介、農村の体験、レストラン、農村観光との連携など、出版や催し、ワークショップなどを行い、広く発信し紹介し、購入や地方観光を通して、地域経済に寄与できる活動を実践している。
スローフードの国際大会で大分県佐伯市の麹屋本店とコラボレーション
齋藤さんたちの会社の初のプロジェクトの舞台となったのが、2014年にトリノで開かれた『サローネ・デル・グスト」。
「そこでワークショップをやっていいよと言われて、何をやろうかと。 震災で被害を受けた福島のことを知りたいとか 、食べ物って何だろうとか、日本文化の発信や紹介をして欲しいという声もあった。でも、それだけにとどまりたくない。どうしたらいいかと考えて、みんなで味噌作りをするという企画を実現しました。
そこで声を掛けたのが、大分県佐伯市で300年続く麹屋さん『麹屋本店」代表の浅利妙峰(あさりみょほう)さんの息子さん(次男)の浅利定栄(じょうえい)さん。
彼がちょうどドイツでビジネスを拓くためにヨーロッパに来ていたのです。スローフード協会から相談を受けて、定栄さんを推薦したところ『サロ―ネ・デル・グスト』で日本の生産者代表という形でスピーチが実現し、彼と最初のワークショップをしました。ちなみにそのあと、浅利定栄さんはイタリア食科学大学に入学されました」
「麹屋本店」https://www.saikikoujiya.com/
定栄さんの母親である浅利妙峰(あさりみょほう)さんは「麹屋本店」の代表。麹を広く知って使ってもらいたいと「塩麹」を現代の調味料として紹介し大きな広がりを創った人だ。
「麹屋本店が麹を提供してくださり、イタリアの有機大豆を使ってみんなで手前味噌を作るワークショップをやったところ、子供から大人まで50人ぐらいが参加して会場で味噌作り。もちろん味噌はすぐにはできませんから、仕込んだものをイタリア人の発酵食品生産者に預かってもらい熟成。味噌ができたら、みなさんに買ってもらってそのお金を福島に寄付しようと。その味噌を福島に送りたいという思いもありました。」
味噌を造る構想は、秋月辰一郎氏の(1916~2005)『長崎原爆記』の著作から思いついた。
そもそもなぜ味噌づくりワークショップを思いついたのか。原点にあるのが、第二次世界大戦中に、自ら長崎で被爆しながら被爆者の治療にあたった医師ので秋月辰一郎氏の著書がある。
「『体質と食物―健康への道」という本で、防空壕で被爆しながら原爆症にならなかった人たちのエピソードが紹介されているのです。避難した防空壕に味噌と塩蔵のワカメもあったので、先生が指示をして、毎日濃い味噌汁の中にワカメを入れて皆んなが食べたそうです。当時は塩も天然塩でミネラルもたっぷり入っていて、もちろん添加物など入っていない本当の味噌があった。その結果、原爆症にひとりもならなかったと。味噌がどれだけ人間の免疫に有益で、私たちを守ってくれるかということを考え、体を守る食べ物のあり方について、3.11の福島の話や菌の力を知るについて知るワークショップとなると考えたからです。」
子どもたちと行った「味覚のワークショップ」が大好評で迎えられる
別のワークショップでは、静岡県賀茂郡西伊豆町田子「カネサ鰹節商店」の「潮カツオ」の芹沢里喜夫(せりざわりきお)さんも参加した。「潮カツオ」は、鰹を塩蔵し、藁でくるんだ正月の縁起物。守らないと無くなってしまう貴重な食文化を継ぐスローフードの「味の箱舟」に認定されている。
カネサ鰹節商店 http://katsubushi.com/
「芹沢さんと一緒にかつお節や出汁のワークショップもしました。やり方や多様性の試み。ほかの人と自分は味覚が違う。例えば子供たちに出汁の入った器を渡し味噌を自分で溶かして飲んでごらんって言って試してもらう。自分で美味しいと思えるところでお友達と交換してごらんと言って、お互いの感覚や感性を使うようなやり方で、それぞれの個性を現してもらう。相手を知るコミュニケーションとしての食がある。どういう形がいいか当初は分からなかったんですが、なんとか自分の食べることに感覚に向くような、そういうことをしたいと思っていました。日本から来ていただいた生産者の人たちも喜んでくれました。それまでの展示会では、商品を並べて試食を提供することはあってもイタリア人の子供たちと会話しながら向き合った経験がありませんでしたから」
外国人が日本の生産現場に行き、本物を伝える、万博で伝える和食の伝道師
このワークショップでの経験と手応え。これをビジネスにつなげたいと思っていたとき、ミラノ万博がいよいよ翌年に迫っていた。そこから大きな広がりが生まれることとなる。
「最初にお話を頂いた企業の万博関連のプロジェクトは残念ながら空中分解してしまいました。今思うと、要はプロモーションだったんです。販売や商品を売ることが目的で、なんか違うなと感じていました。仮に一年間そのプロジェクトを続けてもその先がないのではないかと悩みました。設立間もない会社が仕事を選べる状況でもないのですが、メンバーに相談したら断ってもいいよと言ってくれて、本当に断腸の思いで断りました。じゃあGENらしく、何をするか何を仕掛けるか。その時に和食伝道師の企画を思いつきました。GENの社名にあるようにGenuine、本物の食文化を伝えるには一方通行の伝え方ではなく背景とか精神性まで伝える必要があると。だったら日本人が自分の食文化を語るのではなくて、感性が豊かな、初めて出会った日本文化への感動を外国人の人たちの声や反応を通して伝えた方がいいのではないかと。それで『日本に行って食の生産現場を体験して、ミラノ万博で外国人の和食講師になりたい人』をネットで募集してみたんです。条件によっては奨学生として招待することもできると。会社を設立したばかりで、残りの資金は300万円をきっていたので大きな投資でした。」
同時に齋藤さんは、三重県知事がミラノ万博の出展に興味があると話を聞き、人づてに紹介を受け、自ら三重県へ売り込みに出かける。
「三重県に行くのはそのときが初めてでしたが、伊勢神宮があり、食と精神性が結びついていて当時のキーワードに繋がると思いました。ちょうど三重県側もミラノ万博にどういう形で出展するかまだ決めてらっしゃらず、『イタリアから来ました』と言うと『じゃあ来年の万博をどう打ち出したらいいのか一緒に考えてみてください』と興味は持ってもらえました。それで県内の食のキーマンや生産者を紹介していたことをきっかけに、プログラムを三重県をフィールドにしてつくろうと決めたのです」
世界中から100名以上が応募。面接で11か国15名が日本へ飛ぶ
齋藤さんの構想は、日本の食文化に関心が高い外国人が、直接、三重県の食の現場を訪ね、そのレポートをミラノ万博で講義形式で海外に発信・紹介していくというもの。イタリア食科学大学で経験してきた、生産現場を訪れ味わい学ぶ実習や、スローフードの祭典で実施されたワークショップの経験が生かされた発想だった。
「当時はまだ日本には地方で食の体験ができるような場、特に食のプロフェッショナル向けのフィールドスタディという概念はなかったのです。それを形にしようと募集をしました。反響は予想以上でした。まずイタリア食科学大学の学生たちや卒業生だけでも日本に行きたい人たちがいっぱいました。韓国で開催されたスローフードの『テッラ・マードレ』にも行き、そこでネットワークづくりをしていたら、『日本で食を学べるなら参加したい』という人たちが次々見つかりました。さらにソーシャルメディアで募集もかけました。ミラノ万博で和食講師をすることを前提に『日本に行って日本の和食文化、それも精神性もリサーチするような研究員を募集します』という案内をしたところ百名ぐらい参加希望が殺到しました。応募者は、最終的に欧州はもちろん、南米やアジアからも含め20ヵ国ぐらいから来て、全部オンラインで面接をしました」
応募者100名超からから11か国15名を選び、三重県でツアーが実施されることとなる。
「プログラムは三重県の津市から始まり、鰹節とか漬物など三重県の特徴的な食品の生産現場に行く内容。 最初に訪れた鰻の料理屋では調理場で鰻を捌く様子を見たりしました。伊勢神宮ももちろん行きました。伊勢神宮も私たち日本人が語ってしまうと神道という宗教の話になってしまいますが、宗教を超えて、食文化として参加した人にどう伝えたらいいのか考えてもらいました。万博のワークショップで発表する前提で、発酵(fermentation)、神道(shintoizm)などのテーマから参加者それぞれが自由にリサーチし、発表内容を決めていきました。私自身は三重県に土地勘もなく、ネットワークもなかった中で、地銀の百五銀行さんがコーディネーターとして支えてくれました。」
参加者は交通費自前。宿泊は齋藤さんの会社がもつというものだった。
「本当にいろんな国から多様性のあるメンバーが参加してくれました。食専門のジャーナリストもいればレストランオーナーやシェフもいる。三重県側の受け入れ側も初めての経験、主催者の我々も初めての経験で、ほんとにお祭り騒ぎの珍道中でしたが、結果すごくうまくいった。三重県の人たちも参加者もとても喜んでくれたんです。お金にはすぐにはならなかったのですが、たくさんのメディアにも取り上げられ海外でも発信されたので投資価値はありました。そこからいろんな話が来るようになり、今で言うガストロノミーツーリズム(食文化を学ぶ旅)の原型みたいなものになったと思います。それは生産現場に旅をするというイタリア食科学大学の学びが発想の源でした。」
旅のなかには、思わぬ出来事もあった。
「よくある話ですが、小さな地域の中で、隣同士にある市や県はお互いの関係が複雑です。研修の交通費が高くて困っていたらある市からバスを協賛しますというありがたいお申し出を頂いたんです。ところが隣の市の境で山の中で降りなきゃいけないとなった。他の市の中でうちのバスは走らせられないと。そんなことないでしょう、ここで降ろされても困ると掛け合って、初めてその市と隣の市が連携せざるをえないことが生まれるという、そんな“休戦協定”に協力するようなこともありました(笑)」
万博では海外の人が日本の現場をリサーチし母国語で紹介を行った
ミラノの食の万博では、三重県のツアーに参加した海外メンバーが、来場者に三重県の食文化を伝えるGenuine Japanという講義型ワークショップがシリーズで展開された。
「プレスリリースを打ったら現地の新聞はもちろん海外のメディアも取材にたくさん来てくれました。当時のプログラムに参加した人たちの人選がすごく良かったと思うんです。彼らの多くが食の世界で、今で言うインフルエンサー(人に影響を与える発信力のある人)となっています。ミラノ万博の会場では、彼らの三重県での生の興奮や感動を、通訳を介さず彼等の言葉で伝えてもらった。
参加者にはイタリア人もいればスペイン人もいるので母国語で話してくださいとお願いしました。万博ですからいろんな国の人がいます。自分の観点で自分のリサーチしたいテーマで自分が見た日本の食文化を伝えるということに協力したいと、みんなミラノには自費で来て、時にはうちに泊まりながらワークショップの準備を一緒にしたりしました。」
その後、三重県での繋がりと成果は、2016年「G7伊勢志摩サミット」の市の海外発信やジャーナリスト向けのプログラムの提供にもつながった。ミラノ万博では日本の公式サポーターの役割も担った。そこから農水省、経済産業省など多くのネットワークが広がる。
万博で「スローフード館」を会場に日本の食文化のシリーズ講座として開催
「万博の場での再会は、三重県の同窓会にもなりました。そんな様子が日本からテレビの取材が来てテレビ東京の『ワールドビジネスサテライト』や朝日新聞に大きく取り上げられたりしたこともあって、それが呼び水になり農水省の公式行事や、日本の地方自治体さんからから地域の食文化に関する仕掛けができないかとか、そういう話をいただけるようになりましたた。まだ駆け出しなのに、声をかけられたら図々しく訪問させて頂きました(笑)。山形県鶴岡市さんもその時に出会い訪問しました。ユネスコの食文化創造都市に認定されている唯一の都市ということもあって鶴岡市役所には食文化推進室があるのです。市役所にそんな部署があるのは地域でも珍しいですし、市長も含めてとても熱心でした。思いのある役所の方々と、地域の精神性と食文化をどうつなげていけばいいかと色々話し合いました。ミラノ万博の時に出展されてそのお手伝いもしました。」
鶴岡食文化創造都市推進協議会
http://www.creative-tsuruoka.jp/information/
「鶴岡市とはその後、地方創生事業に4年間携わりました。2014年にはイタリア食科学大学の提携も取りまとめました。多国籍な大学の学生たちを相手に、食文化の体験プログラムを地元の方々と共同で作り上げて、テストマーケティングするという内容でした。食文化を海外に伝える地元の人の育成もしなければいけないとわかりました。ミラノ万博で感じた課題ででもありますが、生産者さんが自分の言葉で、外国人を前に語るというのは何度も場数を踏まないと難しいのです。それで食科学大学生の研修を鶴岡市をフィールドを継続して実施することにしました」。
2020年の2月までには、イタリア食科学大学と鶴岡市で有料化しても十分いけるだろうというレベルの連携プログラムが出来ました。海外を意識した地元の料理人の育成をするために、イタリア食科学大学だけでなく、GENのネットワークを使い、ミシュランクラスの料理人たちに盛岡市に来てもらい、一緒にプログラムを体験して開発してもらったり、地元の職人さんと交流してもらったり。そのようなプログラムが農水省の食体験開発を奨励する賞の受賞にもつながりました」
海外からの参加者に同行するガイドや地元の現場コーディネーターの地位を高めたいと、「カルチャー・ブリッジ・クリエーター」と名付けて育成するプログラムも実施した。地域で人を育成し食文化を伝える機会を醸成する食文化教育政策を提案したのだ。
きちんと現場をリサーチして伝えることを行政にも提案
「食文化を伝える展示会などの現場では、とても悔しい経験もしています。大きな代理店が企画すると、どの行政も同じ内容になりがち。その結果、地方自治体や生産者がその土地ならではの魅力を上手く伝えきれないイベントになってしまっているのが多くあるように思います。ミラノ万博でも毎週週替わりで自治体や団体がイベントをしていましたが、どこも法被を着て幟を上げ、偉い人が挨拶を読み上げ、鏡割りをして振る舞い酒をする。海も山も『四季折々うちの地域には全てあります』と、味噌もある酒もあると全部産品がずらりと並んで試食や試飲をしてしまいがちです。海外の人から見るといろんな自治体があってもどこも同じにしか見えないんです」。
何がその地域のコアなのか、整理してプレゼンテーションをすることが重要だという。「自治体さんが主催するともちろん公平性というものを大切にするので、この生産者を出したらこちらも声をかけないとならない、となるのは当然ですが、結局ごちゃごちゃになってどの地域も同じに見えてしまうのはもったいないです。しかも場所は海外です。通訳はいますが、その土地の文化を伝えるストーリーを理解する人がいないと、通訳がいても上手く伝わらないのです。万博の会場では、生産者の方がどう対応しようかと呆然としている姿も見ました。例えば、原木栽培の椎茸を持ってきた人は『どんこ』なんてどう伝えていいのかわかりませんよね。水で戻す椎茸と言ったって、それがどうしたのとなる。イタリアにあるポルチーニとどう違うのか、代々どうやって育まれた食文化なのか、伝えるか準備ができていなかった。ちゃんと伝えるキュレーション(情報をまとめ整理し発信する)することや異文化に伝えるための再構成が必要です。海外の異文化の視点、相手のことが分からないで売りこめるはずがないですし、日本で長く愛されているからどの国の人が食べても美味しいでしょってそんなエゴイスティックなことはなくて、相手の文化も分かった上でどうするか考えていったほうがいいと思います」
「美術館だったらテーマを決めて作品を選ぶ『キュレーター』がいます。来場者には解説する人やツールとかきちんと用意されています。ところが食文化のイベントではそういった工夫が足りないのです。こんなに素晴らしい食品や文化なのに、横で観ていてほんとに悔しい。伝わらなければ商売にも繋がらない、売ることもできない。今でもですが、自治体の偉い方に対して図々しく言いたいことを言う私は青臭く煙たい存在だと思います。でも中には共感してくださる市役所職員の方もいて、プロモーションではなくプロジェクトを一緒に立ち上げて地域に根ざした事業開発みたいなことをやりませんかと声をかけて下さる方もいました。その一つとして、富山市さんからはエゴマオイルの開発のお話を頂きました。イタリアはオリーブオイルがありますが、それをエゴマオイルとブレンドしたらどうかとか。エゴマの薬効をちゃんと分析して伝えるという、一つの大きな研究開発プロジェクトになりました」
左官職人の出会いから食から土の重要性を伝えるプロジェクトへと発展
ミラノ万博の三重県の出展の際には、食に絡めていろんな伝統工芸のPRもあった。三重県四日市にある左官職人舎「蒼築舎」http://cohettui.jp/代表 の松木憲司さんという素晴らしい左官職人との出会いもミラノで生まれた。
「松木さんは、このままでは火を使う食卓が日本からなくなってしまうという課題意識で、卓上で使える小さな竈を作ってらっしゃる。当初は、ミラノ万博で自分たちの土の文化や左官の技術が上手く伝わらない不安を持っている様子でした。食卓で火を囲むことから土に触れ、食や命について伝えたいと相談をいただき、ミラノで左官の技を伝えるワークショップを一緒にやりました。」
松木憲司さんとのワークショップから手を使うことや土の教育の重要性に辿りつく。また、イベントの一過性ではなくどうやったら人とつながり続けて伝え続けられるか。そこから食と土、現場を繋ぐ活動が始まった。
「ミラノ工科大学には自然素材を使う建築を使う、ビオ建築の研究者がいます。自然素材を使った建築の学びの場を作っていて、日本の左官技術に注目していました。そこに松木さんが呼ばれてワークショップをやっていました。そういった大学の方々と繋がって本物の土と暮らす日本の文化を見せたいと思った。土と左官の技だけではなく食や現場や蔵などにどう生かされているのか。なぜ土壁を作ったのか。万博ではそれを知ってもらいたいなと思ったんです」
齋藤さんは、食のプログラムと並行して、ビオ建築研究のプログラムをSOZAIと名づけ、2015年から手掛けている。 年に一回開催される土のデザインコンペでは 焼かない土、発酵させた土を使ったプロダクトをデザインし、優勝者にはGENの日本の建築プログラムが提供される。もちろんビオ建築研究者を対象とした日本建築プログラムは有料で参加することもできる。そこから食と土と暮らしの知恵の大切さを知り繋ぐプロジェクトが生まれた。
その積み重ねからGENを母体とする、JINOWA(じのわ)という「土」のための土壌再生コンソーシアムが誕生する。
https://ideasforgood.jp/2021/06/07/jinowa-interview/
(GENを母体とする、JINOWA(じのわ)という「土」のためのコンソーシアム紹介記事)
石坂産業との連携から循環型環境への発信へと広がる
「建築と食は別のことだと思われていますが、プログラムを重ねていくうちに土というキーワードで私の中でだんだん融合してきました。発酵や土壌微生物に繋がることなんです。食の分野の専門家たちに食材や発酵食品の現場に連れて行くようなことはもうずっとやってます。もちろん今回の日本プログラムにも入ります。でも土についてじっくり話すという事をプログラムでやるのは今回が初めてでした。今回参加する方々は自分の職業を超えて、地球人としてどう生きるかというような視点がある人たちです。土の大事さに経験を通して気づいているような人で、土が大事というと当然だよね、という感覚もある。2015年から本格的に活動を立ち上げてきて、ようやく本当にやりたかったことに直球で取り組める感じがしています。これはコロナという地球規模で起こった出来事によって、微生物とか目に見えない自然への脅威が世界的に生まれた時代の流れも大きいと感じます。脅威もありますが逆にリスペクトというか、微生物とか土とか発酵食とか土の健康とか、それが人間の体にどう作用するか、人間だけでなく環境全体の生命力を高めることに意識を持つ人が明確に出てきたように思います。そういう人たちに今回のプログラムは向けているつもりです」
あらゆる産業を循環型へ転換するために、地域コミュニティレベルでの生態系回復に向けた活動を行う。JINOWAが最も注力して研究するのが「土の力」。健全な農作物を育てるための土壌の大切さや、生態系全体における土の役割を実証していく。それが齋藤さんの活動のミッションであり、石坂産業によってまた新たな未来の扉が開けようとしている。
※印の写真は「株式会社GEN japan」齋藤由佳子さん提供。