さて、先週からネウボラ活動のきっかけについてを綴らせてもらっている。
→シグナル①北大と私
きっかけとはひとつではなく、色々なものが奇跡のように折り重なって起こっている。
シグナルの二つ目は、大変偉大な名誉ある賞を北大のとある先生が受賞したこと。
これもひとつのシグナルであった。
その偉大な賞は確か、7~8年前の10月のニュースであった。
大変立派な賞だということで北海道中が沸き立っていた。
理系のその方の人柄もすばらしく、関係する特許はすべて放棄したのだという。
世界の全ての人のために、自分だけが富むことを選ばなかったんだと思った。
北海道の誇りだと思った。
さて、この頃の我が家。
娘は4歳になったばかり。息子は1歳を少し過ぎたところ。
娘、息子とを抱えてワンオペ育児の状況から、9月からようやく仕事に就いて、
2年のブランクから仕事復帰したばかりの頃であった。
さらに少しさかのぼるとこんな状況だった。
息子の妊娠が判明してからの10か月ワンオペ育児を専業主婦でこなしていた。
娘を遊ばせ、お世話をして、夫のお弁当と毎回の食事を作り、日々過ごす。
休むことは知らずに、全力で家事と育児と、睡眠時間を削って、家庭を切り盛りする。
精一杯よき主婦であった。
それから、息子が産まれたタイミングで家賃の3分の1になる夫の社宅の空きが出て引っ越し。
新しい土地で、産まれたての息子と、3歳の娘と数か月過ごしたところであった。
娘の発達が著しい時期だった。
引っ越し前に通っていた英語教室が順調であって、
引っ越し先にも割と近くに開設されていた同じ英語教室に移籍したのだが、
その頃3歳だった彼女の発達レベルと合わなくなってしまったらしく
「毎回同じことばっかりでつまらない」と、
違う言葉遊びを試したり、他のお友達を巻き込んで
学級崩壊させるようになり、辞めざるを得なくなった。
それと同じくらいの時期だっただろうか、
こんな教育方針なら入れてあげたいと、バスのルートなど、
先を見越したプレの幼稚園に入会手続きしたのであったが、
年中からプレに入るような家庭は少なく、年少の多いプレクラスだった。
「こんな赤ちゃんばっかりのところには行きたくない」と、
少し遠いがせっかく何度も慣れるため足を運んで手続きも入金もしたのだが、辞退を余儀なくされ困り果てていた。
振り返ると思い当たるところはあった。
2歳6か月で5~6歳向けのドリルを買った時の事。
彼女は、一日4時間集中して取り組み楽しんでいた。
なんと3日で終わらせてしまった。
産後の母子手帳の発達の項目は、
ほとんど当てはまらず、大きく進んでいる子どもだった。
このころの娘の発達が育児書の通りでは、まったくなくなってしまっていたのだと思う。
市販のドリルはほとんどの銘柄をやりつくしてしまった。
このころからは娘の行く先を探してさまよう大変な時期であった。
それでも変だとは思っていなかった。
初めての子どもだったからだ。孤立していたからだ。みんなこのくらいするものだと思っていた。
『うちの子が普通』
でも、知能や言葉の発達が早いのだが、
精神的な発達は他の子と何も違いないので、
年上の子どもたちと楽しく遊べるわけではない。
同じ年の子どもたちと楽しく遊べるかというとそれも難しかった。
『うちの子はもしかすると発達障害なのかもしれない』
ついに、不安になって、ネットで色々と情報を集めた。
いろんな相談窓口をさまよっていた。
しかし、この頃、発達障害という言葉がどこの窓口でも伝わらなかった。
まだまだ世の中に発達障害という言葉はほとんど出回っていなかったのだ。
だいたいの答えとしては『障がいがあるかもしれないから検査を受けなさい』という。
ひどいところでは『児童相談所に行けばいい』と言われた。
結局、『うちの子は障がいではない』ので検査は受けなかった。
外遊びは好きだったので、体を動かす遊びか、やや知的な工作などを含む作業をすることが彼女の体力の発散方法だった。
外に娘の遊ぶ先を求めなければ、私が下の子を抱えて相手をしなければならないのが大変だったが、子育てを助け合えるようなコミュニティには巡り合えておらず、孤立していたので全てを独りで抱え込んでいた。
相談窓口では新しい知識は得られなかったので、相変わらず娘の事を大変だとわからないままでいた。
区役所などへ相談に回るたびに、私の子育てについてを問われ、子育てについてとやかく言われた。
私には彼女しか4歳の子どもというものを知らなかったから、
みんなが困らずできている子育てを、私ができないから悪いのだと考えるしかできなかった。
私はダメなお母さんだから、この世にいない方がいいとずっと思いこんでいた。
子どものことで、壁にぶつかるたびに、死にたいと思った。
こんな私が子どもを産んだのがいけないのだと思った。
産んでしまって申し訳ないことをした。
私のせいで子どもたちも苦しむのならば、いっそのこと3人で死にたい。
いつでもそんな渦中にいたように思う。
この頃、その知識がなかったが、今に思うと、家事・育児を独りで抱え込んでいて、完全に産後うつの状態だ。
それにしても、上の子の出産で貯金がなくなったところで、二人目妊娠中の専業主婦生活。
下の子は社会保険の出産費貸付制度を利用して出産した。
家計は苦しくなる一方、いよいよ息子も1歳、仕事に出ざるを得ないといった状況でもあった。
区役所へ保育園の相談に行ったところから、保育園探しに慣らし保育、とにかく仕事開始までの手続きは一通りやったのだろうと思うが、あまりのめまぐるしい忙しさに、当時の記憶がほとんどなく、また、当時書いていたブログもストップしており、この時期の行動について記憶をさかのぼる手段がない。
結果としては、息子は認可が通らず、認可外の保育園へ。
娘は、認可外の保育園に朝登園し、バスでさらに別の認可外の保育園へ行くこととなったような気がする。
仕事を探そうと思うと、選べるものの中から望む仕事はなかった。
好きでない仕事の中から、これならやっていけそうだと思うものを選ぶことしかできなかった。
そんな仕事であっても、たくさん受けた面接では、子どもがいるというだけで、否定的な言葉をたくさん投げかけられた。
子どもがいて働こうと思うことがとても悪いことなんだと思った。
そうしてようやく得ることのできたコールセンターでの仕事が始まると、朝の4時に起きて家族の弁当を作る生活が始まった。
初めて就いたコールセンターは時給は他のパートなどに比べて割がよかったのだが、故障相談の窓口。
受電すると同時に烈火のごとく罵倒されるようなクレームの多い部署だった。
産後うつのところに、ますますの睡眠不足と慣れないクレームの対応、保育園の送り迎えとも複数の施設を1人で巡る。
保育園等からは、できないことを、もう少し頑張ってやってほしい、とか、子どもがこうだったからこうではないかなど、専業主婦の時にはなかったような、子育てはこうあるべきというような専門的なアドバイスが押し寄せてくる。
ますます自分はダメなお母さんなんだとの認識は強まり、やっぱりますます死にたいと思うようになっていた。
そんな時に、例の大きな賞を北大の先生が受賞したのだ。
孫世代の私に、つながりは全くわからないのだが、彼は遠縁の親戚らしかった。
テレビのニュースが騒いだ時、彼が「子どものころから二宮金次郎のようだった」
と、何かの番組のナレーターがしゃべっていた。
その言葉に、頭をぶん殴られたようにはっとした。
二宮金次郎のような親戚はとても多いのだ!
「そんなナレーションが入るとは!」
とっても驚いた。
このナレーターの声ではっと大きな気づきを得た。
彼が二宮金次郎のようだったから偉大な賞をとったのではなくて、
その人はやったのか、やらなかったのか。
どんな想いを持って取り組んだかなんだとわかった。
この大きな気づきは私のネウボラ活動に勇気を与え続けているといっても過言でない。
とっても大きな気づきだった。
死にたいという思いまでは消えなかったのでまだまだ引きずることになるが、
このことをきっかけにもう一つ。
子どもに対して、初めて前向きになれた。
自分のせいだけではなくて、子どもの個性だと
ようやく受け入れられるようになった。
子どもを育てるということは、素晴らしい可能性があるんだと。
私の中で大きな前進となる気づきが二つも得られた出来事だったのだ。
子どもを育てるということに、ようやく希望を見出した。
自尊心や自己肯定感のほとんどなかったあの頃。
もしかすると、私も何かやってみたらすごいことができるのかも?
そんな事もふと頭をよぎった初めての出来事。
これが前回のエッセイシグナル①北大と私
での北大への挑戦にもつながったのだ。
ネウボラ活動へと導く、ひとつの大きなシグナルであったと認識している。
明るいニュースに心が晴れた。
大きな勇気をもらった、そんな出来事だった。
~人生が160°変わった!主婦の社会活動という選択~
#1【ただの主婦】
#2【ネウボラ】
#3【WANとの出会い①】
#4【WANとの出会い②】
#5【シグナル①北大と私】
NPO北海道ネウボラ代表 五嶋絵里奈(ごしまえりな)
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