記事掲載判断のお詫びと説明    2023年7月12日

                     伊田久美子 古久保さくら

2020年8月にWANサイトに掲載した石上卯乃名義「トランスジェンダーを排除しているわけではない」が多くの反トランス論を勢いづかせ、差別的な偏見を拡散させる結果となってしまったことについて、当時の編集担当として、トランス当事者のみなさまにお詫びします。その上で、この場を借りて今日までの経緯を説明します。

この記事の掲載により上記の結果を招いてしまったことは、私たちにとって痛恨の極みです。また、それでも石上記事にたいする批判記事やこの問題についての理解を深めることができる記事をWANサイトに寄稿してくださった当事者の方々には感謝してもしきれない思いです。

WANサイトの記事は、各コーナーの担当が記事アップの可否を決めるという、編集分業体制をとっています。これは、多くの記事が集まるサイトの運営をボランティアで進めるための方策ですが、以下のようなポリシーは共有されてきました。

1)開かれた公論の場の提供を目指している。
2)掲載記事にWANが賛同しているわけではなく、有用と思われる論点について、多様な見解を掲載する。(そもそもWANは一致した見解による運営はしていない。)
3)掲載は投稿規定に沿って採用する。

2020年8月に掲載した記事(筆名:石上卯乃)は7月に投稿され、編集担当(当時)の伊田・古久保が上記の判断により掲載しました。この記事を掲載し、開かれた公論の場でまっとうな批判記事を併せて掲載することにより、煽られた「女性の不安」の沈静化が可能であると考えたからです。差別的な記事は掲載しないが、差別的かどうかが争点になりうる可能性があれば掲載して、何が差別であるかを議論することは有意義であるという判断はありうる、と考えてこの記事を掲載しました。しかし現在は、この判断が、知識不足に加えて、以下の点での想定も甘く、誤りがあったと考えています。

  (1)批判や反論記事の登場までに数日のタイムラグがあり、その間に当該記事のみが批判記事なしに閲覧されてしまった。
  (2)SNSによる拡散の影響についての想定が不足しており、当該記事から批判記事へのナビゲーションが十分に機能しないことに無自覚なままプラットフォームを開いてしまった。
  (3)ネット空間での議論は理解の推進をむしろ妨げ、対立を煽る効果を発揮しかねないという問題に無自覚であった。

実際アクセス解析では当該記事のみを読んで直帰しSNSで拡散する行動が批判記事への遷移を量的に上回っており、編集意図とは真逆の結果となってしまいました。その結果、私たちが目指していた偏見の払拭と理解の推進以上に、偏見を拡大し、当事者を傷つける結果を招いてしまいました。特に当事者にとってはインターネットというツールが必要不可欠であり、そこでの偏見の拡散からの防衛が困難であるという事情についても無自覚でした。

この問題のWANサイトにおける始まりは、2019年2月の署名の呼びかけ記事にさかのぼります。お茶大のトランス女性受け入れ決定をきっかけとしてSNS、特にツイッター上で広がったフェミニストを名乗るアカウントからの排除的言説を憂慮した人々による署名が2019年2月にWANサイトにおいて呼びかけられ、その後トランス排除を批判する一連の記事がシリーズとして掲載されました。現在はこのシリーズについては、セラーノとバトラーの翻訳記事をのぞいて、全ての記事が投稿者連名での希望により取り下げられています。

これらの記事は、ふぇみぜみトランスライツ勉強会からの公開質問状に対する編集担当の回答への抗議として取り下げられました。

上述のように、WANは各コーナーごとに理事を含む担当者がそれぞれの裁量で自由に記事を掲載しており、石上記事の掲載は私たち2名の判断によるものでした。公開質問状への回答の段階においても、開かれた公論の場でまっとうな批判記事を併せて掲載することにより、煽られた「女性の不安」の沈静化が可能であると思っていました。しかしこれはたいへんな思い違いでした。この回答は媒体としてのWANが「公論の場」を維持する、ということを述べているにすぎません。ネット上でまっとうな議論の可能なプラットフォームを提供するということがいかに難しいことであるか、まったくわかっていませんでした。このことはその後に私たちが多くの専門家や当事者のみなさんに意見を伺う中でようやく理解できてきたことのひとつです。

今回の私たちの失敗は反論・批判の展開を想定してのことであったとはいえ、「女性の安心安全」か、トランスジェンダーの権利か、という誤った「対立の場」を無自覚に「公論の場」としてしまったところにあります。このように設定された場における議論はまさにマイノリティ同士の分断を煽る結果にしかなりません。批判記事でも指摘されている「言論空間をどのように設定しプラットフォームをどう維持していくのか」という課題に応えられないまま私たちはこのトピックを凍結してきました。

私たちは当時の編集委員としての判断を事後的に後悔することになりましたが、記事の取り下げについては理事会合意に至ることができないまま、何人かの方々の助言も得て、掲載当初の目的であった煽られた「女性の不安」を沈静化することが少しでもできるよう、石上記事に批判記事へのリンクを貼り、批判記事も併せて読んでもらえるようなナビゲートを心がけました。

批判記事への遷移とアクセスが増加するとともに、石上記事へのアクセスが沈静化していったため、再びの炎上を懸念しながらアクセス状況を監視してきました。新たに炎上を招きかねない可能性を考えると記事削除にも踏み切れませんでした。これらの記事の読者から、石上記事の問題点が理解できなかったが、批判記事を読んで冷静な判断ができるようになったという感想もいただくこともありました。

一方私たち当時の編集担当をはじめとする関係者はたびたび内部学習会を開催したり、アクティヴィストや研究者に教えを乞うたりしながらこの問題について考えてきました。その間トランス当事者コミュニティーにとって貴重なツールであるSNSが荒れる要因をWANがまた作ってしまうことを恐れ、サイトへのこのテーマの投稿を差し控えてきました。

しかし昨年あたりから、LGBTの権利に関する法案をめぐってマスコミレベルでトランスジェンダーへの攻撃の言説が広がるようになる一方で、以前の批判記事があらためてアクセスされるようになりました。今は、もはや炎上の回避に意味がある段階ではなく、発言が求められる局面であり、トランスジェンダーへの攻撃に対するフェミニストの立場からの抗議の意思表示が必要な状況であると判断し、「LGBTQ+への差別・憎悪に抗議するフェミニストからの緊急声明」の呼びかけ人にも名を連ねています。

  この問題についてのサイトでの凍結を解くにあたって、新年度より編集体制を見直し、諮問委員会を設けて、編集担当は諮問委員会に記事の掲載妥当性を諮問する体制を新たに設置し、できるだけ判断の失敗を繰り返さないよう配慮することとなりました。

トランスジェンダーのおかれた状況について、またインターネットにおける言説の拡散とその効果について、さらには言論空間のあり方について、私たちの知識、理解が欠けていたり不足したりしていたことをご指摘、ご教示くださった多くのみなさまに、心よりの感謝を申し上げます。トランスジェンダーに対する逆風は、フェミニストが歴史的に経験してきた困難と同じように展開しており、2000年代初めのジェンダー・バックラッシュと酷似した言説が横行しています。性暴力のない社会を目指すフェミニズムと、トランスジェンダーの人権を守る動きとは、対立どころか同じ課題に取り組むものです。性的マイノリティの差別解消に向けて、フェミニストとして尽力していきたいと考えています。

以上をふまえ、WANの担当者の編集判断の失敗、およびこのような経緯があったことを記録に残し、今後とも参照できるよう、本記事の閲覧には本報告記事、および批判記事の閲覧を必須とする形での公開に変更することとなりました。

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