息子撮影(ただのおばさん・指映り)

長女が生まれてから部屋が狭くなって引っ越した先はロイズの店舗併設の建物のアパートだった。
数分あるくと、すぐ北海道イチ大きな川。
石狩川が流れており、隣は自然豊かな農業の町当別町。
とても広い敷地のあいの里公園があって、大きな沼地やテニスコートなどもあるあたりの豪雪地帯だった。

札幌の一番端といっても過言でないエリアである。
あの頃は、一晩で窓の半分まで雪が積もって埋まってしまうことが度々あった。
駅から歩く途中の2~30分の間で吹雪に見舞われて、風の強さと大変な雪に呼吸ができなくなりそうになって本気で死ぬかと思ったこともあった。

雪がほとんどない苫小牧育ちの私は、ここにくる前に住んでいた東区よりも深い雪にとてもびっくりした。

それから下の子が産まれてまもなくくらいまでのしばらくはここで暮らしていた。

下の子が出産した年くらいから、近くの大きな施設がロイズに買い取られて、整地がはじまって、庭を作り始めていたように記憶している。

二人子連れで散歩する間、
どんな花が咲くんだろう。

気になりながら整地が進んでいく様子を日々眺めていた。

残念ながら、それは知る前に次のワンオペ育児の地へと引っ越してしまったのだが、現在、ロイズガーデンという名前で夏季開園している素敵な観光スポットとなっているようだ。

9歳になった息子と行ってみた。
まだ苗木であった見事なバラの数々が息子より大きい背丈で生い茂っている。
一輪が大きく可憐なバラの花房に吸い込まれるようだ。

下の息子を妊娠したのは、出産後初めてのパートであった前のSEの仕事を辞めたすぐの29歳の秋~冬にかけてくらいの時期のことだった。

上の娘は2歳。前回述べたとおり、活発な子どもだったので、散歩や遊びに付き合うのが日課だった。

パートをしていたので、近所付き合いはもちろんなく、アパートなので町内会への入会の声かけもなかった。
せいぜいオートロックの全体玄関の入り口の前の掲示板で近くの公園で開催される夏祭りの情報を知るくらいだった。

近所に普通のお店はなく、大きな道路をはさんだロイズの向かい側に1件ローソンがあるだけだった。

近くのバス停を通るバスは1時間に1本しかなかった。

最寄りの児童館は2~30分かかり、幼児を連れて歩くにはとても遠かった。
この時もやっぱり、転職したばかりの夫の給料は高くなかったので車がなかった。
妊娠初期の頃はたまに行っていたかもしれないが、妊娠中旬に入って以降はめったに行くことがなかったかもしれない。

貯蓄は上の子の時に底をつきて、パートでは月10万の手取りから5万円以上の保育費、結局の外食などの出費がかさみ貯蓄するどころではなかった。 出産の費用も二人目のあてはなかったから、この時は出産一時貸付金という夫の社会保険の制度を利用した。

近くのローソン。最近は大きな介護施設ができたよう。

最近でこそ、あいの里助産院で、あいの里ネウボラ★MamMamステーションという赤ちゃんひろばのイベントを一緒に開催しているが、この頃は助産院が何なのか知らなかったし、かかりつけの産院以外は行っていいところではないと思っていた。
学生から社会人になるとき、子育てするための世の中の仕組みを知る機会がほとんどないと思う。

1人目を出産した東区の病院はとても気に入っていた。
女医さんでフリースタイルの出産ができて、カンガルーケアもしてくれるし母乳指導もある病院だったからだ。
収入で見ると、我が家の世帯にとっては高級で贅沢な病院だったかもしれない。
それでも、私は望むお産ができてそれは幸せだったと思う。

でも車はないので、今回はこの産院へバスで1時間以上かけて通院していた。
今振り返ると、近所の顔なじみもなく、子育て支援施設もなく。
あとは、週1回の英語教室にやはり1時間に1本のバスで4~50分かけて通っていた。
産院と英語教室以外との顔の見える関係というのはほぼなかったのかもしれない。
臨月が近づくにつれて、大きなおなかで2歳児と旅するバスの移動はどちらも大変だった。

生チョコクロワッサン

実は、お隣のロイズの店舗ではパンを販売しており、あの頃は朝9時に開店した。

300円ちょっと近くと高級だったが、大きな食パンを朝一スライスしてもらってお昼に食べるのが唯一の楽しみだった。

左の写真は私の一番のお気に入り。
生チョコクロワッサン。

クロワッサン生地の薄皮の底にはしっとりした生地。
その底の生地上にとろける生チョコがたっぷり入っている。

地球がなくなる前に何が食べたいかと聞かれると、絶対コレになると思う。

パンは100円未満からあって、1食で考えるとそんなに高くなかった。
平日はほぼ毎日行っていたし、特に、土日は家族で朝食のために毎月のように新作が出てくるいろいろな種類のパンを買うのが楽しみでもあった。

広々、ゆったりとした快適でおしゃれな空間の中、子ども用のいすもあり、お水と挽きたてのコーヒーが無料で飲めるイートインスペースがある。

お店のお姉さんたちとは子どもを通してすっかり親しくなり、広くてゆとりのあるつくりの店内なので、ちょっとしたスペースを走り回ったりしても、いつも笑顔で迎えてくれていた。

トイレもとても広くて、子どもと一緒でも利用しやすい。

私たち家族のほっとできる空間であった。
こんな空間があったから、妊娠中のワンオペ育児もヘルプを求めるという事はなかったのかもしれない。
パンを買うだけのゆとりはあったこと。
アパートに備え付けの食洗機があったこと。
隣に素敵なパン屋さんがあったこと。 まだ20代で若かったこともあって、娘と散歩・公園と遊びまわっていたが、なんとか妊娠期も乗り越えていけていたのだと思う。


ところが、あるとき、体の異状を感じて産院へ駆けつけた。
臨月を前に切迫早産の診断を受けた。
困っていなかったし、困っていると思っていなかった。
体がしんどいと思わなかったし、体がしんどいと気づいていなかった。

1回目のエッセイで述べていたが、このころは完璧な主婦であった。
朝早く起きて弁当も作っていた。
朝はきちんと起きて身支度して、夫の支度をして丁寧に見送っていた。

娘の世話もした。しつけもした。家事も手は抜かなかった。
娘のために散歩も、英語教室も、熱心だった。

ただ、最後のこのころ、重たい食材の買い物を運ぶのや娘の抱っこがとても大変だった。
まだ2歳でぐずったり暴れたりする娘をどうしようもなく長い間抱き上げている時間があった。
他に抱っこを代わってくれる人は一人もいなかった。

結局、娘は夫方の祖父母の家に預けて1ヶ月ほど入院することになった。
入院して初めてわかった。
入院して初めておなかの息子と二人きりで過ごせた時間は貴重だった。
静かな時間だった。

こんな体を休めることのできる時間ができてびっくりした。
私は「お母さんだから」
ずっとずっとこの子が産まれてから休むことはできなかった。

この時の私には入院する期間が必要だったのだ。
きっと神様が与えてくれた貴重な時間だった。

入院したけど、それでもわかってなかった。
上の子を手放した罪悪感がとても強かった。
「ダメなお母さん」入院中も自分を責める。
人に頼ってはいけないのに、祖父母に頼ってしまった。

自分自身が今、子育て支援の活動をやってみて。そして、ようやく気付く。
母の罪悪感は、この日本の呪いであったと。

女に押しつけられてきた「母への責任」を払拭していかなければ本当のネウボラができない。

社会全体で子育てするフィンランドの文化。
こんなにおかしな妊娠期を過ごしてはいけないのだ。

母親であっても個人の尊厳は守られなければならない。
母親であってもひとりの人間として生きることが私たちには本来許されているのだ。

ひとりひとりの人権に寄り添う伴走する支援がネウボラ。
このことはまだまだ認識されていない。

女性がすべての責任を負わなければならない社会ではネウボラは成り立たないのだ。
ネウボラの理念を札幌でまだまだ知ってもらわなければいけない。


入院して退院後もそのまま娘は祖父母に預けるよう産院に指導された。
なぜなのかこの時はわかっていなかったけれど、私が無理をしてしまうという先生の判断だったのかもしれない。

どうして、あの頃は、通院のために夫に休みを取ってもらって送ってもらうということすら考えられなかったのだろう。
頼る先のない育児。本当は夫にも頼り、二人で乗り越えなければならないことのはずではなかったのだろうか。

『男は仕事に行き、女は家庭を守る。』

そんな恐ろしい意識が真っ暗な心の地中深くから根を張っていたのだと思う。

そんなわけで、切迫早産という予想もしなかった出来事から、入院から出産まで期間はのんびり過ごすことができた。
この頃までは、感覚的には幸せだったように思う。

だけど、本当のワンオペ育児の地獄は2人目の産後に訪れるのだった。



~人生が160°変わった!主婦の社会活動という選択~
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NPO北海道ネウボラ代表 五嶋絵里奈(ごしまえりな)